地球を平和の惑星に

話の居酒屋

第二十三話

今回の居酒屋談は、「独り言」でもない、「独り思い」である。

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今年も、まもなく、8月を迎える。

私にとって、8月は自分の誕生の月であり、そして、そして、、、、日本人にとっては、原爆、終戦と、戦争の記憶をよみがえらせる月でもある。

この一対の写真をご覧いただきたい。左は、1950年(昭和25年)ころの私と兄妹の写真。そして右は、見て明らかなように、この三人兄弟のうちの私と妹が消された写真である。

 1945年(昭和20年)、もし、父が戦地より生きて帰還しなかったなら、私はもとより妹も生まれるはずはなく、左の三人兄弟の写真は決して撮れなかった。撮れたのは、兄、独りだけの右のような写真である。兄は1942年12月生まれだが、私は終戦の翌年1946年8月の生まれ、妹は1948年1月生まれであるからだ。

そしてむろん、今にいたっての、このサイトもこの記事も、存在するはずもない。

その戦争で死んだ人は、アジア全体で少なくとも二千万人といわれている。日本人だけでも三百万人を越えている。つまり、その死により、生まれなかった子の数も、そして生きられなかった人生も、これほどの数のレベルに達しているはずである。

加えて、この写真が語るもう一つの事実がある。三人の背丈において、私と兄との差が、私と妹の差の倍ほどあることだ。つまり、年齢差が兄とは4歳、妹とは2歳であることだ。そして、もし戦争がなかったら、私と兄との間に、もう一人の兄か姉が生まれていただろうことだ。

 

このように、私は戦後に生まれた、最初の世代である。言い換えれば、平和を象徴するように、その再出発と共に生きてきた世代である。

だからゆえ、直接の戦争体験はないのだが、その残された臭いは嗅いで育ち、生きてきた。その意味で、戦争の気配を後世に伝えられる、いまやもっともシビアーな位置にある世代でもある。

と言うのも、私が若い頃に読んだ書物の著者たちは、ほとんどが直接の戦争体験者たちだった。そして合わせて、その肉声も聞いてきた。そうした生き証人であった、五味川純平も、大岡昇平も、野坂昭如も、大江健三郎も、すでに故人となってしまった。

また言っておきたいが、私の世代であっても、その戦禍を“直接”と言っていいほどに受けて生まれてきた人たちもいることだ。「被爆者」たちもそうだが、たとえば、本サイトへの投稿、「私を産んだ〈チンポ〉」の著者もその一人である。

 

この独り居酒屋談ごときを大仰に、「地球を平和の惑星に」なぞと題したのも、そうした戦争の臭いを記憶している世代として、それを語っておかなければならないと思うからである。

そしてそれが今なのは、世界に戦争のニュースが絶えなくなっているからだけではない。加えて、そうした私の人生のうちのそうとう長い間、日本は明らかに、世界の「平和の側」に立つ国として存在してきた。それが、その惨禍を忘れてしまったかのように、刻々と、「戦争の側」に立つ国へと変貌してきているからだ。

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