結論から先に言うと、「離身体験」と「文章表現」とは、同じものとは言えないまでも、同列の行為ではないかと考えられます。むろん、この両体験は、日常行為としては大いに隔たったもので、後者に比べて前者は、極めてまれな非日常体験です。にもかかわらず、それを「同列」とするのは、いずれも、その体験者を、人生の一種のよどみの底から救い出し、まるで羽根でも生えたように、空から鳥の目で地上の自分の姿を見渡すに等しい効果があることです。
「離身体験」については、今回の訳読に述べられているテーマのひとつで、いわゆる超自然体験の部類に入るものです。そしてそれが、その体験者にとっては、人生観を変えるに等しいインパクトとなる体験であることです。
一方、「文章表現」とは、個人差はあれ、すぐれて日常的行為で、その体験がいきなり人生観を変えるほどのものであるかどうかについては、ことに「離身体験」との比較の上では、はるかに劣るものであるのが普通です。
そうではありますが、その日常性を越えて、自分の内部にわだかまるしこりを何とかしたいとの動機でのぞむ「文章表現」については、その絞り出すような努力とあいまって、その格闘の中から生み出される、《自己分離作用》と呼んでもよいような、自分を客観化視するプロセスを体験できます。
ちなみに、そのプロセスをへてこの世に生み出されたもののひとつが、本サイトで連載中の投稿、「私を産んだ<チンポ>」です。今、その著者の幸子氏は、その「文章表現」をし終えた達成感――そして疑似「離身体験」――を、大いに満喫されているはずです。
さて、そこでですが、もし、「離身体験」と「文章表現」とが同列のものであるとするなら、超自然体験と突き放して解釈される「離身体験」についても、もっと日常的で身近な、あるいは、《自然的》な意味もあるのではないかと推量されます。少なくとも、そういう次元が気付かれぬまま、見落とされ続けてきたのではないか。
つまり、「離身体験」も「文章表現」も、共に人間の脳が作り出す創造作用=メタ化作用という共通性のもとに、後者が現世つまり境界内活動であるのに対し、前者が、あの世への越境行為の前段であることです。
そしてより本質的なことは、そうした共通性がありながら、なぜ、両者はそうも別々のものと考えられてしまうのか、ということです。それどころか、何やら、共に身体性を克服してゆく、新次元への飛躍であり、エネルギーの発露であるがごとき親和性に輝いています。
その共通性こそ、私が「霊理学」と呼ぶ新分野とその対象です。そしてそれはどうやら、量子理論が、まったく別の角度から、アプローチを試みているようであることです。
では、「輪廻転生(その2)」へ、ご案内いたします。