『Modern Esoteric』の訳読をぴったり昨年末に終えて、先の『Future Esoteric』と合わせた二部作は、『「東西融合<涅槃>思想」の将来性』(2017年3月)と『現代の「東西融合<涅槃>思想」』(今回)となって訳読が完結しました。そしていま、私はある感慨と読後感を抱いています。それは、4年前にこの訳読作業に着手した際、両原題のキーワードである「Esoteric」を「東西融合<涅槃〔ねはん〕>思想」と意訳〔「「ワームホール」体験の文末参照」〕した、そのほとんど直観的な《着眼》に関わっています。つまり、「<涅槃>思想」は果たして「東西融合」の基軸概念となりうるのか、との視点です。言い換えれば、この意訳は正鵠を得ていたのかとの反省です。
そしてその《着眼》は自ずから、この「グローバル・フィクション」という解説版の(その82)でテーマとした「『心の持ちよう』の問題」に絡んで、それをどのように持てばよいのか、との問いにも関連します。
そしてさらにその問いは、その「心の持ちよう」の胆〔きも〕の定めどころを、原著者が帰着した「許し」に置くのか、それとも「<涅槃>思想」の根底にある「罪業」に置くのかといった、人間の在り方に関する根元的なジレンマに至らせます。
というのは、この二部作の原著者であるブラッド・オルセンは、『現代の「東西融合<涅槃>思想」』の「結語」に、Esotericの奥義に立って、私たちの至高の生き方を「愛と許し」に委ねるべきだと結んでいるからです。
そこで、「愛」については、その用語が西洋的であることを除いてほぼ異論はないのですが、「許し」、ことに相手だけでなく自らをも「許す」ことに関し、原著者はそれをこの二冊目の結論、つまり、全人類の究極の使命と位置付けていることがあります。
そこでなのですが、このように結論付けられてしまうと、私の上記の「直観的な意訳」をめぐって、それは果たして、「<涅槃>思想」に沿い、「東西融合」の基軸概念になりうるのか、との視点を生み出さざるを得ないのです。
もう少し踏み込んで言えば、究極的に自らを含む「許し」に生きることは、「涅槃」すなわち「悟りに達して」生きることと、同じことであるかどうかです。
どうもこのあたりに至ると、私は両者間に、似ているようで似つかわない、歴史的経緯の認識上の違いに発する立ち位置のずれを感じてしまいます。
というのは、そのずれには、「許し」は西洋的で「<涅槃>思想」は東洋的だという語源上の違い以上のものがあり、それはことに近世の歴史の対比において、西洋が世界の征服者あるいは加‐植民地政策実施者であったのに対し、東洋が屈服者あるいは被‐植民地化民であったということに関連します。言い換えれば、そこには、歴史における《先進》と《後進》とを区別している、世界常識化した《偏見》がその背景にあることを見落とせない、との視点です。
そして、そうした洋の東西を分ける歴史認識上の違いは、人間世界の深いところに、一種の優劣観としても浸み込んでいる、との視点です。
そしてさらにこの視点を、日本について適用すれば、そうした東西格差の合間を選び、自ら両属的な立場を演じてきたことです。すなわち、時に、後進者として先進西洋文明をモデルとし、時に、優越民族としてアジアに君臨を試みてきたことです。
そこで、西洋諸国における「歴史認識問題」の争点とは、例えば、本書の著者がそうであるアメリカ人にとっては、インデアンと呼ばれた先住民に繰り返された虐殺です。他方、日本のそれとは、南京虐殺やアジア各地での残虐な戦争行為です。いずれも、両国民が自国の歴史的汚点として受け止めるべき極めて重たい過去の過ちであり、他方、そのぬぐうことのできない史実に対する告発です。そして、ことに日米間に関わっては、「ヒロシマ・ナガサキ」という争点があり、核爆弾被爆vs戦争終結への必要悪論、を越えた「普遍的核廃絶」を目指す運動を生んでいます。
そこで、こうした視界に至ると自ずから、その主〔ぬし〕たる私は、相手も自分たちもすべてをおしなべて「許す」とするのか、それとも、加害も被害も事実は事実であり、それに基づいた「罪業がゆえの懺悔〔ざんげ〕」は避けられないのか、との分岐にも至り着きます。
つまり、互いに「許し合う」こと――被害の立場から言えば、史実の忘却の強要――をもってする平和を築くのか、それとも、まず加害側の「懺悔」があり、それへの、被害側を含む全世界の判断をへた上で、両者合意による平和を築くかの分かれ目です。言うまでもなく、前者には、自分都合な許し合い構造への期待があり、後者には、合意がありうるかどうかの疑心暗鬼が避けられません。
いずれにせよ、「歴史認識」の問題とは、地球の歴史における、あるいは人間の生存に付きまとう、加える側と加えられる側という不公正(あるいは弱肉強食)問題が発端です。一方側のみの考えや都合でだけは解決しえない相互問題です。
ことに日本に関しては、そうした両属的選択を実施してきた今日までの足跡から、東アジアにおいて、「歴史認識問題」として指摘される、いまだに未解決の懸案への対処が問われています。
人類の不公正や殺し合いは永劫の定めと“ほおかぶり”を決め込まない限り、平和共存は当然の帰結です。そうだとすると、日々の何処でも誰でもにおいて、合意の形成を常に的確に築いてゆける能力の開発や取得は、相互生存の基本的必要能力ということになります。
「心のもちよう」とは終局的に、どうやらそのあたりのことに胆を据えることのようです。そして、それをどう呼ぶのかと問われれば、私の見解では、「涅槃」が最も適しているかと思えます。
以上ような脈略では、エソテリック二部作のキー・タームを「東西融合<涅槃>思想」と直観意訳したのは、私の希望がゆえのものだったかも知れません。