いわゆる「歴史認識問題」について

  憲法改正考(その31)

慰安婦問題なり強制連行労働問題なり、いわゆる歴史認識問題とよばれる諸問題について、内外の政治家たちの問答はそうさせておき、それとは別に、私たちが互いに人として共感しうる基盤に立ち返る道は可能と思う。つまり、その問題を反面教師として受け止め、私たちの歴史上の尊い教訓とすることはできないのだろうか。「万世一系」に、一度も過誤がなかったとは、いかにも信じ難い。その要は、国であろうと個人であろうと原則は同じで、自らのおかした過ちは、出来るだけ速やかにそれを認め、それから学ぶものを教訓として糧にすることしか善処はない。

もちろん、それを過ちと認めるか、それとも正当と言い張るか、の違いは大きい。ことに前者のもたらす苦痛は大きく、国や社会を二分しかねない波紋を呼ぶだろう。

だが、敵を想定してF35A戦闘機100機に費やすお金1兆円と、予測不能ながら、そうした過ちの償いに費やすお金と、どっちが意味ある血税の使い方となるか。私は、物理力にすがる前者は対立や誤解の上塗りにすぎず、そうではなく、次世代を生産し続けうる人――たとえ外国人であろうと――に費やすことこそ、はるかに懸命で役立つ使い方だと思う。

それらの問題があったにせよなかったにせよ、そういう過去の亡霊やその利用に左右される自分たちでありたいのか。それとも未来の光明へと向かえる自分たちとなりたいのか。時間は逆には進まない。どんな国もいずれは無垢の次の世代、そしてそのまた次の世代と担い続けられてゆくこととなる。そういう今後の世代に、老人たちの面子を押し付けて済むことなのだろうか。過去の過ちは、老人たちが担って旅立ってゆけばよい。そこが将来を分ける分岐となる。少なくとも、一度の愚は避けられなかったとしても、重なる愚を犯すべきでないのは明白だ。

問題はむしろ、そうした人として同士の意志疎通が、だんだん、困難になってきていることだ。いずれの政治家の品性も、地に落ちつつある。

 

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