第四章
選ばれた誕生
突然だが、こんな自分が、ある日、人の親になった。
それが見栄っ張りの延長だったか、逆に断念だったか、よくわからない。延長ではない気がする。一応は女性だった私が、実は20代から30代のある期間、生理がなく、しかし、生活に不自由は感じなかったので、苦にもならなかった。煩わしさがなくてよかった。男ではないから、女。それで十分だった。それが30代の半ば、ある男に出会ってほどなく生理が再開。え?と思ったが、正直、彼にときめいたわけでもなかった。小柄で痩せてタバコ臭もある男。(まだ腹も出ていず、髪も豊かだったが)私と同い年だが、初めての会話で「僕、甘えたいんです」などと言う。その他、頼もしさの正反対をあれこれ聞かされ、こちらの緊張がほぐれたのは確か。初対面でカネの話をする率直さも驚きだった。給与明細見せて、「これに家族手当が加わると…」などと、現実そのもの。家族手当など、当時の私自身の収入に比べたら些細なもので、とても引き換えにできるものではなかったが、当時は主婦の税制がどんどん優遇されていた。主婦になれるなら、ならなきゃ損だとまで思わせる迫力だった。私もそれにのまれたようだ。フルタイム勤務は諦めて、パート勤務の主婦も悪くない…などと考え始めたのだから。
彼は、私のタバコ嫌いを知ると、やめると言う。私を気に入った様子なのはすぐ判った。気に入るというより、私を頼りにしたい、助けてほしいような切実さが漂っていた。
会って何度目かには、手を握ってきた。別に嫌ではなかったので、させておいた。握り返しはしないが。それでも幸せそうにする男を私は可愛く思った。こんなことで嬉しいのか、と。
何度か会ううちに「他(ほか)に付き合っている人いたら皆断ってね」と言い出した。事実、こっちには未練ある人もいたが、彼に比べると、のろまに思え、かすんできた。因みに、そういう男たちが、彼を刺激することになったらしい。どこにでもいるような女でも、他の男ともつきあっているとなれば、光ってくるらしい。この女を取られてたまるか、と、つい、思ってしまうようだ。人は不思議なもので、競争相手を意識すると、思わぬパワーが出るようだ。お目当ての女に自分がどう思われているかなど、彼は余り気にならないようだった。その単純さが更に私を気楽にさせた。気楽と言えば、その体臭もだ。わきがっぽいな、と私はすぐ気付いた。自分にもその気(け)があり、以前の夫には気を使った。好きでもない相手にしょっちゅう気を使うのは疲れることだった。と言って、気も使わず、バレてしまうのもシャクだった。以前、見合いした女がわきがっぽくて断ったということを聞いて、私は複雑な思いだった。直接彼からではなく、姑が口を滑らせたのだが、嘘でもない気がした。女性は緊張して余計汗ばんでしまったのではないか。自分は若い頃にした手術のおかげで、かなり軽減していたが、それでも気を使っていた。気を使いながら、彼の傲慢さ、思いやりなさのようなものに反感を覚えていた。「誰も、好きでそんな体になるんじゃないよ。でも、お相手選びは体の印象からしか入れないの?」
その答えが出ないまま、今回の場面に突入したわけだが、どうせそれほど好きでない相手なら、気を使わなくて済む方がいい、と私は思った。そのうち彼にも効果バッチリのデオドラント剤使わせよう、と。それにしても、タバコ臭も含め、もう少し匂いに敏感でいてほしいとはしばしば思った。実際、中身よりは服や持ち物にしみついているのだ。後日、そういう物を私はどんどん処分した。更に後日、禁煙に成功した時、彼はいっぱしに言った。「タバコ吸う人のそばへ行くだけで臭いな。持ち物まで臭いで」
彼の、無骨さに付いて言うと、私の感じ方とは裏腹に、彼としては何とか私に気に入られようと懸命に努力していたと後日聞かされる。服装、話し方、話題選びに、会う場所選び等々。私には、適当な行き当たりばったりぐらいにしか感じられないのに、彼の方ではそうではなかったという。無論、デオドラントにも気を使ったと言うが、服自体を取り換えなければだめだったのだ。
それはともかく、私に会う時の彼の喜ぶ顔はいいものだった。メガネなしが大きな魅力だった。コンタクトも入れていないという。自分が近視だったので、裸眼で遠目がきく人というのはそれだけで憧れだった。アフリカ原住民人並みとはいかないにしろ、裸眼で難なく生活できる彼は頼もしく思えた。(後日、乱視や老眼、白内障に網膜剥離、と、頼もしいどころではなくなるのだが)
さて結婚。一度目の結婚もそうだったが、私はときめく相手と暮らせたためしがない。…まるで、ときめく相手と結婚したかったような言い方だが、違うな。…このあたりを上手く言える筈もないが、若いころから、私がときめくのは、結婚できない相手ばかりだった。と言うより結婚しなくていい相手と言うべきか。私にとって、結婚とは忌むべき愚行で、誰かにときめき、時には深い仲になっても、それを結婚で汚してしまいたくなかった。この感覚はどの男にも理解不能だったようで、私が、やっとこの縛りから自由になった時には、どの男も去っていた。
それにしても、私は、男たちの甘い言葉、お世辞にはめっぽう弱かった。物心ついた時から、親に、鬼だの、ブスだの、色黒で何を着せても似合わん、などとけなされまくった私は、他人からのちょっとした讃辞にもすっかり舞い上がってしまう。似合わないと決めつけられた淡いピンク色を、「似合うよ、なぜ着ないの?」などと言われようものなら、イチコロ。実際、親に、似合わん、と言われたその色を、私の方では好きだったので、似合わないと言われた時は、その色から嫌われた気がして、悲しかった。いわくつきの色彩になってしまい、手放しで、好き、とは言えなくなっていた。
その色を似合うと言ってくれる! 私をその気にさせるには「その服とても似合うよ」とかで十分。漆黒、つやつやだった髪を褒められてもよかった。やんわり内巻きのストレートボブで、自分では貴重なチャームポイントにしていた。それをほめられると喜ぶ、私は実に落としやすい女だった。妊娠させて結婚してしまおうと企(たくら)む男もいたが、私は子宮に避妊用器具を入れていた。医師はその効果が100%ではないと言ったが、無防備よりはよほど心強かった。それでも、私はそれをおくびにも出さず、相手側での避妊を望み、してもらっていた。
まるで若い日の私が遊び好きで、口先うまい男なら、誰にでも転んだかのような言い方になってしまったが、それは違う。私が抵抗を覚えて仕方ない表現の一つに「女なら誰でも惚れるいい男」と言うのがある。「男なら…」でも同じ。誰でも に、抵抗を覚える。人の好みはそれぞれ皆違う。どんなにイケメンやダンディと世の中で定評ある男でも、私には蚊の刺したほどにも魅力を感じない男はいる。嫌悪さえ感じる場合もある。なぜか、それは自分でも説明できない。好み、相性というものだろう。男から見た女の場合でも同じだと思う。このおかげで幾組ものカップルが生れるのだろう。
因みに、「好みの異性のタイプは?」などと訊かれて、本気で自分の好みを言ってしまうようでは、アイドルになれないな、と思ったことがある。逆に言えば、一流アイドルは個人的な好みを明かさない。「お好きなタイプは?」などと訊かれても、「どんなタイプの女性もそれぞれ独自の魅力があるので、タイプは決められません」などと答えるのだ。これでどんな異性も、更には同性までも敵に回さずにすむ。
ところで、私は子どもの頃から「結婚は人生の墓場」だというのは本当だと思っていた。自分が見なれた男女、特に女にぴたりの言葉だった。いくらドラマや映画で「幸せな結婚」を見せびらかされても、惑わされなかった。子どもにとってはそんなのニセモノ。身近な人の話でも信じなかった。同級生が二十歳(はたち)になった途端に結婚し、とても幸せだと言いふらしに来た時も、私は乗れなかった。口ではむろん祝福したが。内心こう思っていた。「仮に今そう見えても、ほどなくホンモノに転落する。後で吠え面かくなよ」と。一年ほどしてから、その子が実際、別れるの、すっぺたのと泣きごと言いに来た時は、笑いを堪(こら)えるのに困った。
子どもにとっての本物の結婚とは、目の当たりにする親たちのことだ。子を産み、育て、歯もガタガタ、さんばら髪で亭主をなじり、子を叱責することだ。脚には静脈が浮き出し、乳はしぼみ、子に食わす為に自分が食べたい物も食べられなくなることなのだ。それに男のギャンブル、暴言、暴力等々に耐えながら、内職、パート、そのうちやっと正社員と、あくせく働きまわることだ。私が長年見てきた、これが本当のはずだった。
「違うよ、世の中の男が皆こんな訳ではない。もっとまともな男もいるから、会ってみたら?」
と、見合いを勧める女親に、私はかみついたことがある。「若いだけが取り柄なんやから…」などとも言っていたようだった。それも気に食わなかった。普通なら、人生で最もきれいでいられるその頃が、私の場合は一番醜い時だった。太り、むくみ、くすんでいた。着飾ることなどしたくもなかった。
疎ましくてたまらない男と一つ屋根の下にいるうちは、我々は醜悪だった。母子共に、女の原型を外していた。顔はひきつり、体はずんぐり、あるいはやつれ、しぼみ、萎えていた。もし、女親の言うように、私がまともな男と出会うとしたら、それはもっと後でのこと。苦の種の、この男から逃れ、見なくて済むようになってからのことだ。私は女親にどなった。
「言うな、ばかたれ。見合いやて? そんなん、こわーて(怖くて)できるか!」
女親は泣いていた。「自分が、いい見本を見せることが出来なかったからや」と。私が20歳(はたち)の頃だった。同級生たちが競って参加した成人式にも、私はむろん出なかった。
20歳過ぎれば皆忘れてしまう成人式など、やり過ごすのも容易だったが、結婚はそうはいかない。同級生やら、ご近所やら、ヒマ人たちの飽くなき話題の一つだ。私は結婚を恐れていた。私が若い日に恐れたことは結婚と肥満。日々の気苦労は、ほぼ、この二つの回避に尽きるという単純この上ない生活だった。結婚の方をより警戒していた。自力だけで解決できない難問を孕むからだ。結婚生活そのもの以上に、結婚式、披露宴を更に恐れた。あのろくでなしが父親面して、しかるべき席へ着く?! それは私にとって、名状しがたい汚辱だった。何を置いても、全力挙げて回避しなければならないことで、33歳のある時まで私を縛り続けた鉄則だった。
20代の後半から念願の一人暮らしを始め、やっと私は心置きなくお洒落も楽しむようになった。男性たちと関係を持つようにもなったが、その主な目的は、体型維持の為だった。ウォーキングやジョギング、ジム通いなどより、よほど楽しく、快く、しかも体が締まってくるのは嬉しいことだった。体を許せば、結婚するに違いないと思い込んだ男が多く、逃げるのに苦労はしたが。結婚など、実家の疎ましい人物がいる限り出来ないのだ。それを思い出すだけで、自分の表情が曇るのがわかった。いいムードの時にそんな込み入ったややこしい話しなどしたくもないし、仮にしても、どうやって彼らに理解させられようか。ろくでなし親に手を焼いた体験も無い彼らに。
それが外れて(つまりオヤジがこの世から消え)やっと人並みになれた時、素朴に喜び、深い考えもなく、した初婚。女親の助言が効いた。「一度は戸籍を汚しておけ。全くの独身では、世渡りしにくい」。更に勇気づけられた言葉は「してみて、あかんかったら、帰ってきたらええ」。その言葉通り、結婚式、披露宴も人並みにやって、約半年で帰ってきた。書けば簡単だが、実際の帰還はひと苦労だった。結婚とは、するにしろ、辞めるにしろ、面倒なものだ。まあそれで、箔が付くなら仕方ないことだが…ぐらいな思いが当時の私の本音である。
ときめきと結婚は私の中では対峙(たいじ)していた。物心ついた時からそうで、ときめくとは死ねることで、結婚とは死にそこないに他(ほか)ならなかった。長年染み付いたこの感覚は、それが不要になっても、容易には消えない。無論そんなことを口に出したことはない。
さて、ときめき不足とはいえ、二度目の結婚生活は初婚よりずっとよかった。相手はもっとそうだったらしい。そりゃ以前のマグロ女と比べたら、どんな女でも、活(い)きた女はいいだろう。まともに収縮痙攣し、声まで上げるとあっては手ごたえバッチリ。泣きだすこともしばしばで、夫は戸惑いながらも、感激また感激の日々。彼は言った。「アダルトビデオの映像は作り話だと思っていた。あんたを見てわかったよ。ほんまにあないなるんやなあ」それでそのビデオの類、処分しておけばよかったものを、ぐずぐずと、しそびれたもので、何年後かのある日、息子に発見されることになる。小学生の息子に。
「お母さん、こんなビデオ捨ててるわ、お父さんかな?」台所片隅のゴミ箱に捨てられていたビデオカセットを見つけた息子がそう言った。小学校低学年、7~8歳頃か。壊れても汚れてもいない物を捨てるとはどういうことかと、息子は訝(いぶか)しがり、見たそうにした。私はちょっと戸惑ったが、ここで息子に思い残すことをさせてはいけない、と思った。息子にこう言った。「ほんまや、なんやろ? 見よか?」
息子は喜び、一緒に観賞した。奇異な結合の仕方など、アダルトビデオなりの誇張はあったが、成人男女の身体的構造や機能がよくわかり、教材としての役割も十分果たすものだった。息子はこれを誰がどんなふうに撮影したか、に気を取られたようで、「きっと超小型の隠しカメラで盗撮したんやろ」と言った。演技やスタジオ撮影ということは思いつかなかったようだ。なんともはや、可愛いな、と思っていたら、ズバリ質問して来た。「お母さん、こんなのした?」仰向け女性が自分の胸の上に膝を曲げて乗せ、それに男性が挿入するという場面である。「いいや」と私は答えた。「こんなんじゃなく、普通にペタンと寝て、したよ」と。女性側の上付きか下付きかにより、こういうのがいい場合もあるということはまだ教えなかった。私がどうだったかを訊いているのだし、それでいいと思った。息子は納得したようだった。それで、そのビデオは無事に成仏した。
父親が帰ってきても、息子はこれについて何も言わなかった。思ったことを何でもかんでも口に出しがちな息子にすれば、これは大した配慮だったと思う。
新婚から急に子育ての話に飛んではいけない。話を戻そう。我々の慣れ染めは、近所の女性、母の長年の友人の引き合わせだった。「私の甥が離婚して独りでいるが、出戻りのあんた、会ってみない?」から始まった。いわば破れ鍋に綴蓋(われなべにとじぶた)そのもの。
さて、彼と暮らし始めると、その出会いの時から聞かされていた、彼の娘のことを忘れるわけにはいかなくなる。親権は前妻にあり、もう会うつもりもないと彼は言うが、現実に支払う養育費が否応なく子どものことを思い出させる。よちよち歩きで、彼に「おっちゃん、行こう」と言って、手をつなごうとした娘…。別居の期間が長くて、彼を顔見知り程度にしか思わなかったのだろう。後日聞いた話では、彼より一つ年上の前妻は彼より体格よく、マグロ女だったが、ほどなく妊娠、できた子は自分ひとり占めにして、誰にも触らせなかったという。彼女自身が母子家庭に育ち、父親の話はご法度だったという。婚外子だったようで、私には羨ましく思えた。これがお前の父親だと、見たくもない男を見せつけられるよりはよほど幸せだ、と。
私は子どもの頃から気付いていた。その男の顔に馴染みがあるとするなら、それは見慣れているというだけのことだった。見慣れ、聞き慣れているということだけだ。その声とか、仕草、咳払い、おなら、足音だとかを。よその子たちが親を見る時のような嬉しさや頼もしさの気持ちがわかない。要するに、見ても、ほっととも、にこりとも、できないのだ、がっかりはしても。
そんないやな思いをしないまま、いい体格に育ち、結婚、出産をした女性。正直言って、私には羨ましく思えた。嫉妬さえ感じた。私に欠落したものをすべて手に入れているように思えたのだ。私が再度突入した結婚という罠からも自由になった卒業生にも思えた。彼女が産んだ女児の顔は彼女自身と生き写し、男親の面影のカケラもなかった。実に容易く自分の分身だと思えるだろう。後日、私は夫が処分し損なった写真をみつけて、そう思った。これだけ似ていなければ、彼も未練が少なくてすむかも。しかし、現に自分の手を引いて行こうと誘った娘の小さな手の感触は忘れ難いだろう。
父親としては辛かったろうな…。私との生活で、新たに子が出来なければ、彼はずっとその娘を思い続けるかも知れない。対抗策はその娘を忘れるほどの新たな刺激を彼に与えることだ。私は子を産むことにした。いつの頃からか私の中に生れていた消極的腹案、子どもを産まずにもらうという選択肢は二の次になった。もし産まれなければ、ということに。
自分が子ども(特に自分の実子)が苦手で、産みたくないことは新婚早々夫に告げていた。夫はさびしそうな顔で、「女の人は子どもを産むようにできとんよ」と言った。それきり会話は途切れたが、私の意向を聞いてからも夫は私を大事にした。いわゆる妻を子産み道具とみなす男ではなかった。多分、私が子を産んでいなくても、またはもらっていても、私や子どもを大切にしたと思う。
現実には、私は一念発起して、産む準備を始めた。説明できない、この気まぐれは。敗北かもしれない。不意に再開した生理に操られたのかもしれない。それなりの体力が残っていたということではあろうが、それは自力では引き出せなかった。
これは私にとっては、自分の信条を裏切るような大事件だった。幼いころから人の親の重責を思い知り、それを果たすのが如何に難しく、子を不幸にする恐れのある大仕事であるかを思い知っている私は、自分は決して自ら産んでまでは人の親にはならないと決めていた。バツイチ同志の結婚でも、互いに子なしなら、そのまま子なしで終われたかも知れない。損得、苦労の計算をするなら、子なしの方が圧倒的に得だし、楽だろうから。
さて、想定外の事柄に挑むのは大変なことだ。それも時間的に逼迫(ひっぱく)している。私は既に38歳だった。
それまで避妊にばかり神経とがらせていて、解禁すればすぐにでも、のように思っていたが、いかんせん、現実はそうはいかない。20代の弟嫁などは、一発で命中などと羨ましい限りだったが、私はなかなか命中しなかった。がっかりする私に、夫は言った。「そんなこと忘れて遊ぼう。遊んでるうち、お釣りが来たら、もろたらええのよ」と。そう私も思おうとしたが、やはり何かせずにはいられなくて、色んな努力をした。事後逆立ちしたら妊娠しやすいと聞けばそうした。その他、根拠あるなし交々(こもごも)の方法、墓相(ぼそう)のあれこれ、実にいろんな無駄遣いもした。後になって無駄だと判るし、噴飯ものだが、それしかすがるものを知らない頃は、後生大事のお守りである。例えて言えば、怪我人の松葉杖。幼児の歩行器。ある時期不可欠。いずれ要らなくなるにしろ。
私の母はそれを見越していたのだろう。私がどこぞやから仕入れてきた墓相(ぼそう)の話。よい子孫を得る為にはよい墓を、という俗説。これにすっかりハマって、こだわり始めた私に戸惑ったようだが、反対はしなかった。「そんなこと、気休めだとは思うけど、あんたがそれをせずに障害児でも生んでしまったら悔やむだろう」と、高価な墓購入に資金を提供してくれた。そもそも、ちゃちな体の私に出産など、無理だろうと言っていたほどだから、そのお守りという気持ちもあったのだろう。「これで、あんたが子どもの時、辛い思いさせたの、許してな」と言って。「うん」と言う以外に自分がどんな返事をしたかよく覚えていないが、体がジワーッと温かくなったのは忘れられない。墓代と言うより、私への慰謝料、子宝料として、今でも生きているカネだ。墓自体は手放した。「子宝さえ手に入れたら、用はない」とばかりに。あるいはまた、こんなやり方、乳児院の子たちに失礼だ、とも思った。墓に必要な家系図も作れないのだ、彼らの多くが。
思う子宝を手に入れた後は、子育てに時間もカネも食われ始めた。そのうち、墓のバカにならない管理費や、墓参がうっとうしくなってきた。夫や親戚から聞く先祖の実態を知るにつれ、そんな人たちを祀りたくないとも思えてきた。実子でもない子を役所に実子と出生届を出したり、子供たちを思い切りえこひいきしたり…
しかし、黙ってやめて先祖に逆ギレされてはかなわない。念のため最後の墓参で挨拶した。「思う所あり、祀る気がなくなりました。こんな狭い所より、どうぞもっと広い自由な所へ行って下さい」と。その後、引越しを機に墓屋からの連絡は絶えた。
その「吉相墓(きっそうぼ)」とはどんなものかといえば、まず初代墓1基を造り、その後の子孫の墓を、夫婦1セットで1基ずつ代々並べていくというもの。聞くからにカネ掛り、それを戒名でやれと言うから更にしんどい。なんと、一時期、この本(世にも不思議なお墓の物語)が文部省推薦になっていた。その新聞広告を覚えている人もいるかもしれない。とにもかくにも、私は元気な子を授かりたい一念で、挑戦していた。正確な家系図に基づく理想の墓造りに。正確な家系図は戸籍に基づき作るのだが、この作業中に発見したのだ。戸籍のずさんさを。しかし、発見と同時に、系図作りも墓造りも止めようとはなぜかしなかった。惰性というか、乗り掛かった船、ともかく子を得て、その後また考えようと思った。
因みに夫は最初から墓には無頓着だった。私の気休めに付き合ってくれただけ。カネは自分が出すわけじゃなし、お好きにどうぞ、と。手放す時もあっさりどうぞ。そもそも自身が墓不要という考えで、自身の遺骨も斎場での処分を希望。私もそれがいいと思うようになった。意向は息子に伝えてあるが、我々が最後に住む自治体の、時の制度次第。それを考慮しての息子の判断にお任せしている。詳しく言えば遺骨引き取りを無料でする自治体もあれば、有料の所もある。またその制度も今後変更するかもしれない。それらに柔軟に対応しながら、なるべく遺族の負担にならないようにすればいい。
放置され、草ぼうぼうの墓を見て、我家に墓屋が忠告してきたことがある。「このままだと、よくないことが起きますよ」と心配してくれたが、起きなかった。起きたと言えば言えそうなこともあったが、その手には乗らなかった。人の不幸に付け込む業者と胡散臭(うさんくさ)い先祖がつるむというのはありそうなことだ。放置していた祖霊を墓や仏壇で祀り始めたら、子孫が幸せになるというのはよくある話。それはあるだろう。祖霊にも色々。祀る値打ちのある祖霊、祀っても祀らなくてもいい祖霊、祀ってはならない祖霊…と色々なのだが…これを知る人は少ない。更には、一口に先祖や祖霊という言葉でくくれないほど、彼ら各人は、てんでバラバラだということだ。
当然だろう。親子きょうだいでも性格色々。でき具合も色々。その中の一人にでも纏(まと)わり付かれたら、付かれた人の人生ギクシャク。憑(つ)かれたとまでは書きたくない。極意は自分を優先することだ。自分の人生を。とは言っても、私がまるで自分のことのように積極的に係わろうとした霊があったことは否めない。それは複数だった。私の先祖と言うよりは、先祖にヤラレた子どもたちである。闇から闇へ葬られた命。彼らが本気を出せば、先祖ごとひっくり返せるようなパワーを持つ筈だと私は思う。私自身、その化身かと自惚(うぬぼれ)れることもある。
若いある日、私を見た霊媒が言った。「あんた、水子の霊が憑いとるよ」と。まるでいけない事でもあるかのようにそう言い、供養を勧める霊媒を私は低俗に感じた。彼らの怒りはそんなことで収まる筈ない、と思った私は、すでに霊媒の手の届かぬ所にいたのだろう。
さて、その後、ほどなく日本各地で「墓じまい」が盛んになって、お墓業界自体がよくない。墓建立(こんりゅう)よりは処分の仕事が増え、それでしばらくはやれるだろうが。聞くところによると、業者に頼むカネない人たちが墓石不法投棄し、あちこちに、墓の墓場ができているという。
ともあれ、私は墓との短い係わりで、副産物を得た。戸籍のずさんさの発見。今となっては副産物どころか、主たる収穫と言える。出生届が昔はいい加減で、日付や親子関係のことも信用ならないとは聞いていたが、その実例に幾つも遭遇した。また個人名の記載もずさんだった。役所も昔は手書きで、書き写す際、間違うのだ。書く方(ほう)の悪筆のせいか、読み取る方(ほう)のまぬけのせいか。コピーの、コピーの、そのまたコピーで判読困難だったのか。私は系図作成中に、先祖のある人物の名前が出生時と死亡時で変わっているのを見つけた。名前のうち1文字でも違ったら別人になってしまう。「之」が「三」になっているのだ。最初、私は別人だと思っていたが、資料を色々付き合わせると、どうもこの2人は同一人物らしい。役所へ問い合わせると、「子孫の方が法務局へ届けられたら、訂正できます」という。すらすら言えるということは、珍しいことでもなさそう。「そうですか」と電話を切ったが、届け出なかった。先々代の見知らぬ人のことなど、知ったことか、その子どもたちでさえ(知らなかったのだろう)親の名前が死後変化し、そのまま放置されていたことを。
それにしてもこんな戸籍制度、何の役に立つのだろう? 元祖中国でも、形骸化、今や日本と台湾ぐらいにしか残っていない制度だと聞く。実の親子関係や個人名さえ嘘八百のこんなものが公文書だとは笑止千万。
さて、お腹の子どもが男だと判った時には、嬉しさひとしお。女なら不服というわけではないが、私の場合、余計な心配の種になる。自分に似て、大きすぎるバストになったら可哀そうだし、将来整形するにしても、余計な出費、苦労である。その点、男なら、そんな心配無用。また、女の私としては、そもそも男の方が面白い。自分と同じ性ではなく、違う性が自分の中に出来上がるのは、愉快なことだ。男一匹丸ごと自分の腹の中で育つと思うと楽しかった。だが、産み落とした後のしんどさは女児の倍。一概には言えないだろうが、体験上、同じころ生まれた女児の親たちは、3か月もすれば夜泣きからもさっさと解放され、乳離れも早く、羨ましい限りだった。わが子は8カ月間、夜間3時間ごとに泣いては、乳を欲しがり続けた。しかし自分でも不思議だが、それに付き合えたのだ。暗闇で、目も閉じてるくせに、一発で乳首をとらえて吸いつく赤子に呆れたり感心したり、…8カ月後、夜泣き止み、ぐっすり一晩寝てくれた時には、「死んでるんじゃない?」と心配で覗き込む始末。
白髪が目立つようになった自分を他人事のように感じていた。ヘアカラーを始めたのは小学生になった息子に指摘されてからだった。「お母さん、お帽子かぶってきてよ。白髪だとボク、恥ずかしいから」
育児中は、周囲からいろんな雑音が入った。妊娠中からそうで、医者の言う腹帯(はらおび)云々。夏場そんなものしていられるか、と思い、腹帯採用しない産科に乗り換えた。産後は、弟からの「一人っ子は片輪(かたわ)(障害者)やで」。これにはムカついた。自分ら夫婦が20代でコロコロ産んだとのとは訳が違う。こっちは39歳の高齢初産(ういざん)。人一倍の体調管理と呼吸法の練習に励んだせいで、医師や看護師から、「はなまる(注)安産」のお褒めをもらい、ほっとしているのだ。会陰(えいん)無傷を目指した自分としては、ちょっと切開されてしまったのが不満だったが、医学的には上出来だとか。下手に頑張り、裂傷複雑化するより、回復は遥かに早い。とはいっても、しばらくは排尿時に傷がしみる。因みに、同じ頃の入院で全く無傷で分娩成功、その後トイレでするおしっこも平気だったという女性がいた。彼女は言った。「一回目もそうだったの。(おしっこの時)全然しみない。平気よ」と、にこにこと。私は思った。「若くて、体が柔らかいから? 赤ちゃん小さかったのかな?」羨ましく思ったが、贅沢言うまい。わが子の形良い奥行きある頭部を見て、このせいだろう」と納得することにした。傷はすぐ癒えるし、この歳では十分だ、と思い直した。
(注) はなまる ウィキペディアの花丸記号(下記のURL)は現実離れしています。下のイラストが一般的です。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%AF%E3%81%AA%E3%81%BE%E3%82%8B
クソ弟め、そんな私の老体にムチ打つようなことを言わないでくれ。もう一人などと考えるだけでも目まいがした。夫によれば、「彼は自分の子が2人目も女の子やったから、羨ましいんやろ。何(なん)なと言わしとけ」と、ニンマリ余裕の構え。なるほど、そうかもしれないと、私は気を取り直した。また、こういう人もいた。息子を抱いている私に言う。「まあ、高齢出産なのに、こんな正常な子が出来てよかったわね。老化した卵子では、奇形や流産も多いのに…」(その通りだろうが、大勢集まる集会の場で、朗々(ろうろう)とおっしゃるのは如何なものか)。他にも、姑からの「抱きグセつけるな」その他「乳離れは1歳までに」「母子手帳は大切に。特に、予防接種はきちんと受けよ」
その頃、私はまだ勉強不足で、最後の雑音にだけは惑わされたが、あとは、聞き流した。WHO(世界保健機構)やIAEA(国際原子力機関)の胡散臭(うさんくさ)さに気付いたのは、それよりずっと後のことだ。
乳離れも標準をはるかに逸脱した息子だったが、私は焦らなかった。とにもかくにも本人の納得いかない中断は、将来に禍根残す気がして、出来なかった。息子が赤ちゃん時代を無事終えて、幼児になり、よくおしゃべりし始めた頃、私は一番の気がかり「低いお鼻」のことを息子に直接訊いてみた。生まれたての頃、夫が露骨に笑った低さ。横から眺め、大声で「鼻低いなあ!」
笑っていたから悪気はないのだろうが、産んだ者は気が引ける。誰が見ても母親似というから余計にそうだ。加えて恐ろしい出来事に遭遇したことがあり、手遅れにならぬうちに手を打っておく必要があった。
それはまだ我々に子どもの気配もない頃、夫の兄一家が新婚の我が家へ遊びに来た時のこと。中学生の彼らの息子(我々には甥)が、自分の母親の横顔を見ながら言った。「お母さん、鼻低いなあ、だから僕も低いんや」
私には、さして低いとも見えなかったが、その息子の基準ではそうだったのだろう。「思うことをすぐ口に出す、中学生と言っても、まだ子供だわ」などと思っていると、その母親、息子に向き直り、凄い剣幕で言った。「あんたにそんなこと言われる筋合いないわ! お父さんがこれでええ言うてんねん!」
私は仰天した。母親の返答に。世の中に、こんな返答あるのか?
傍(そば)で聞いている父親が無言なのも奇妙だった。
思春期の息子が、自分の容貌を気にし始めるのは自然なことで、それを口に出したら、ともかく受け止めてやるのが親ではないか? 私はその母親が、まず息子に「なぜ急に鼻のことを言い出すのか、誰かに言われたのか」などからきき出すと思っていた。いきなり怒り出すとは思わなかった。生んだのだから言われる筋合いはある。また、「お父さん」が急に出てくるのは何ゆえ?「これでええ言うてんねん」とは?
私は何の口出しもしなかったが、この息子の行く末を案じた。
この事件ゆえに、「自分も人の親になったら、子どもから、いつ何時(なんどき)その問題を指摘されるかもしれない。慌てずしっかり受け答えするには事前準備が必要。思春期前に手を打たねば」と思ったのだ。横になっている息子の顔をのぞいて私は言った。
「お鼻低いよね」と、息子にズバリ。「ふーん?」という反応の幼児。気にする様子はない。続けてこう訊いてみた。
「この低いお鼻のせいで、何か嫌な思いしたことある?」と。
すると息子はコロコロとさつまいものように転がりながら言った。
「ぜーんぜん! だってこのお鼻でいろんなにおいをにおえるもん!」と。にこにこして。
ほう!と私は驚いた。機能すればいいと、この子は解っている。形や高さは二の次だと。
これでよし。万一思春期になって、鼻に不満を持つようになっても、今日のことを思い出すだろうから、あの甥っ子のようにはならないだろう。
今、その子は思春期もとっくに過ぎ、社会人になっているが、普通の鼻になっている。特に低くも高くもない。あの甥っ子だってそうだった。彼は欧米人の顔が基準だと思い込んでいたのかも。そういえば、昔、高校の美術教師が石膏のアリアス胸像にうっとりしながら、「これが完璧な美」とか言ったのを思い出す。「惚れ惚れしますねー」などと、同意を求めるようなことまで言われ、閉口した。私から見れば異様にデカイ鼻っ柱、どこが美?なのだが、感じ方、人それぞれなのだろう。
息子十代の終わりころだったか、私が、ふと、息子に幼児期のやり取りを覚えているかと訊いたら、覚えているとのことだった。でも、思春期になったらまたちょっと気も変わるで、と笑っていた。
穏やかな性格に育った。性格に関する限り、私に似ない穏やかさだ。夫に似たのか?
夫自身にもよくわからないようだった。そもそも「自分の子分」的な意識がなく、「お出まし頂いたお子様」のような接し方をしていた。「うっかり足を踏み外して、ここへ落ちてきてくれた子」とも言った。
子供だまし的な接し方はせず、威圧的なこともしなかった。子どもは心許して言いたいことを言えていた。私と夫が議論している中にも、当たり前のように入ってきて、自分なりの意見を言った。4歳か5歳ぐらいだったか、ある時、我々の話に割り込んできて、こう言った。
「おかあさん、こんなおとなとけっこんしないほうがよかったんじゃない? なにもかんがえずに、ササッとするから、いかんのよ」
夫は笑いながら小声で口答(くちごた)えしていた。「ササッとしたから、できたんじゃ」
その流れで、では母はどんなおとなと結婚したらよかったか、のような話になって、私が
「別の人と結婚していたら、生れるのは、もっと違う子だったのかな」と言った途端、息子は断言した。
「だれとけっこんしても、このかおなの!」
夫も私も笑いこけた。息子は自分を100%母親の分身だと信じているようだった。多分、誰でも幼児期には思いがちなことだ。父親は後付けで取り換えがきくような感覚。または自分が先にいて、産む人が誰でもこの顔だという勢い。息子の発言は、自分の顔を気に入っているからこそ言える発言だろうと私は嬉しく思った。自分が世界の中心、まさに子どもらしい、自分本位な世界に彼はいるのだ、と。最近では、ひょっとして幼児の感覚の方が本当なのかもしれないと思う。子が親を選ぶ。子に狙われたら逃げられない、産む羽目になるのか、とも。または、子に選んでもらわなければ親になれない、どちらにしろ、子どもに対して「親が産んでやったからおまえがいる」の感覚は間違っているということだ。
息子は性格穏やかではあっても、人の言いなりにでもなるのでもない、何かにつけ自分なりに取捨選択した。幼いころからそうだった。墓相信仰から脱却した後も、あれこれ巷(ちまた)の宗教に絡(から)め捕(と)られそうになる私を救い出しもした。「楽園が来て、人間が歳とらず、死ななくなるなんて変よ。動物や木や花は相変わらず死んだり枯れたりするというのに、人間だけ瀬戸物みたいにカチーンとしてるなんて」とか、「お母さん、また違う人の供養?…死んだ人に利用されてるみたいだよ」とか。
ある宗教の神示についても、私の疑問に即答した。「神に感謝しても、父母(ちちはは)に感謝し得ない者は、神の心にかなわぬ」これを私が訝(いぶか)しがっていると、息子は言った。
「そんな神なら、その心にかなわなくていい」と。
6歳頃から12歳頃の子どもは凄いと思う。幼いのに凄い、のではなく、幼いから、凄いのだ。大人になるにつれて鈍る感性がまだ健在で、気付いたことを片っ端から口に出す。疑問や質問、意見に不満、機関銃のようにまくしたてる6歳児を身近に体験できたことは大きな収穫だった。私は、子どもとのやり取りにあくせくしながら、自分の子ども時代の空虚が埋まっていくような気がした。無視されたり、黙っていろと言われた頃の空しさが。うちの子に限らず、その歳頃の子どもは大人よりはるかに聡明だ。それに大人が気付くかどうかだ。私と同じ宗教に絡め捕られていた知人の息子はこう言ったという。
「お母さん、エホバがサタンとちゃうんか」
息子がまだ小学校にもあがらないころ、夫の親の家へよく遊びに行ったが、両親とも喫煙習慣から抜け出せていなかった。我家が禁煙族と知っているので、両親も遠慮気味にはしていたが、我慢できない日もあるようで、部屋に煙が充満し、息子がむせて咳をした。すると夫の母親が言った。
「あら? この子、カゼ引きよるで。風邪薬飲ましときや」
息子はその後、彼らに会いたがらなくなった。じいちゃん、ばあちゃん、とさえ言わなくなった。
子どもとしっかり関(かか)わったのは私の実母だった。自分がよい歯を維持できなかったから、孫子にはそうならないようにあれこれ教えた。唾液の重要さをよく知っており、食後歯磨き出来ない時もお口くちゃくちゃでかなり効果あると教えた。自分の経験によるのだろう。反実仮想の発想は極力避けたい私だが、思わずにはいられない、彼女は、夫と歯医者だけにでも恵まれていたら、どんなに健康でいられただろう!と。
子どもにとってのたったひとりの祖母は、その孫のおかげで、自身が生き延びたことを有意義なことにできた。不幸な結婚から逃げられず、不幸な子しか産めなかったと悔やんだ自分の人生を、一転、誇りにさえできたのだ。娘の私からは散々こき下ろされた。「あんな死にそこないに汚(けが)され続けるよりは、子を孕(はら)む前に、さっさと実家の悪徳オヤジか強姦亭主を殺して囚人生活した方が、余程よかった」とまで言われた。それに返す言葉もなく、凹みきっていた老女。
その老女は自分の老後を一転、嬉しい老後に出来た。おしゃべり、いたずら、手をつなぐのが大好きな小さな孫のおかげで。「私が娘を産んでいなかったら、こんな孫にも出会えなかったわ」
口には出さないが、彼女はそうとしか思えない嬉しそうな顔で孫とやり取りしていた。
「あの子は私を家族と言ってくれたよ」と彼女は喜んだ。話しかける時も、私を覗(のぞ)き込んで話してくれる。何と嬉しい、ありがたいことやなあ、と。
私は彼女をばあちゃん、とかばぁさまと呼んだ。夫をお父さんと呼ばず、息子をボクちゃんなどと呼ばない私としては異例だ。自分から見ての実母を、息子から見た呼称で生涯呼び続けた。固有名詞のように。我々の元祖は唯一この人と私が思っていたせいもあろうか、息子はその他の先祖に付いて知りたがることはなかった。生れた時から、あやしてもらったり、何かと、かまってもらったせいもあり、子どもはその祖母を慕っていた。「おばあちゃんとボクだけの秘密」のようなものまであったらしく、私には想像もつかない世界だ。息子は社会人となってからは転勤族で、年二回ほどの休暇でしか会えなくなったが、いつも休暇を楽しみにしていた、お互いに。
不本意ながら、その祖母は、亡くなるまでのひと月足らず、意識もないまま点滴で生き延ばされてしまったが、休暇で帰ってきた息子はその寝顔に会えただけでもうれしいと言った。わが祖母のやせた腕をさすりながら。
私には考えられないことだった。そもそも触りたくなるような祖父母などいなかった。親さえいなかった。息子は、小学生になっても、よく私や夫と手をつなぎたがったり、抱きついてきたりした。極秘の乳触(ちちさわ)りは小学校入学後まで続いた。私に冷やかされると思うのか「落ち着くの」と、解説しながらである。とはいえ、息子自身もさすがに気が引けるのか「お母さん、おちち」とは言わず「お母さん、ブツを」と言っていた。ばあちゃんには白状していたようである。「おばあちゃんだけに教えるけど、ボクな、まだ、おちち触ってんねん」と。おばあちゃんは知っていたと思う、昔はそういう子は珍しくなかった。朝、登校しようと、誘いに来た友達に「待ってな、この乳吸い、すぐ終わるで」などと言う子が結構いたことを。
【つづく】
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