以下に述べる視点は、おそらく、ことに若い読者からは、「老人の保守的見解」と断じられるもののひとつでしょう。それはそれでもっともなのですが、しかし、それを自認しつつもその一方、この年齢になってみなければ得られない視点であるのも確かなのです。私も二十代の頃は、十も歳が離れれば、もうその人を、人とさえも見えないようなところがありました。
そういう次第で、本稿はことに、「タナトス・セックス」という「メタ・セックス」な境地から見えるいくつかの光景を、前二回にわたる本論に付け加えて「補記」するものです。
今年四月に出版された、『男子の貞操:僕らの性は、僕らが語る』(ちくま新書1067)という本があります。この一見、クラシックなタイトルの本は、そうでありながら、その冒頭に記されているように、「男子の・男子による・男子のための、新しいセックス論」という、新規なこころみにチャレンジしている自己開発書です。
その著者,坂爪真吾氏は、タイトルからも想像できるように、まだ33歳の若者です。「ホワイトハンズ」という重度身障者への射精介護サービスなどを行うNPOの代表で、「性の公共」をつくるとの理念の実践者です。
この本で、彼が述べている主論点は、「僕らを射精に導くのは『誰の手』なのか」という序章のタイトルのごとく、私たちの性が、「お上の見えざる手」によって牛耳られているという現実です。つまり、性というきわめてプライベートな分野——自らの創意と努力で乗り越えられてゆくべき自分自身の問題——にもかかわらず、それが「お上に丸投げ」されて「不活発なリアル」を蔓延させ、その他方で、無数の風俗商品——独りHの「おかず」や偽体験——に見られるような、いかにも「活発なフィクション」——女性の物化・商品化——が大繁盛しているという、大きな亀裂があるとするものです。
正直なところを言えば、私自身も、そうした亀裂や自己錯誤の中を右往左往してきました。その中で、片手落ちで偏向した体験や失敗を繰り返しながら、60を越える今に至ってようやく、なんとかそのバランス——“収支決算”——ができる境地へと至ったかの感があります。むろん、押し流されてはいけないとの自覚はあったつもりですが、それも、相対的なものにすぎません。
私はこの本に接し、日本の若者の間に、とかく身体性に没入されがちなその世代にあって、ある精神性が重視され始めている動きを見出し、一種の共通項を発見した思いを抱きました。
いうなれば、上記NPOのめざす「性の公共」といった他人預けにしない風潮が社会に定着してゆけば、上記のような「バランス」は、「老人の保守的見解」に至る以前で、現役時代のその節々において、適宜に実行されているだろうと思われます。
こうして、「性」と「お上」という、人間社会においてのいかにも「生々しい」——片や個人、他方は国家という——両極の交錯関係に注目してみると、その先には、「性」と「戦争」という、「生々しさ」を通り越した、むしろ醜悪で残酷とも言える別の「両極交錯関係」が見えてきます。
このような二つの「両極交錯関係」には、平和時と戦時という状況の違いはあれ、国家による「見えざる手」という、同類の介入の跳梁があります。
ちなみに、この戦時下の「両極交錯関係」の問題の一例が、「慰安婦問題」です。戦争——若い男子が生活する社会から切り離されて戦場に動員される——という、著しく人間性を抑圧する政策が国家によって選択される時、合わせて、「慰安婦」という同じく非人間的な他方の動員も必要とされたわけです。
また、その「銃後」では、性が生殖をもたらす唯一の人の生物学上の働きである限り、兵隊増すなわち人口増を効果的に果たすため、その性は、国家管理のもとに置く意図にさらされます。まして、性が生殖に直結せず、男女という最小社会関係におけるあたかも「コミュニケーション」手段に用いられるのは、そうした動員政策国家には無駄な行いと映ったはずです(「欲しがりません勝つまでは」という当時のスローガン)。そこにおいては男女の性は、ひときは生殖へと誘導され、「産めよ増やせよ」との結婚と多産への奨励も行われ、政策遂行に貢献させられたはずです(ましてや、老いぼれ世代の性などはもってのほか)。
ここでふと思い出される記憶が、以前に記した「待ち腹」という言葉をめぐる、ちょっと「奇異さ」を感じさせられた私の母親の口にした用語です。それをとり挙げたそのエッセイでは、この言葉を、戦争を体験した私の両親にまつわる家族関係の文脈において述べたものでした。しかし、その言葉には、私の母親が使う言葉にしてはどこか異質なものがあり、それを、こうしたその背景の社会に目を向けて考えれば、そのいかにもストレートな語感は、当時の社会における風潮に影響されたものであろうと、伺がわされるところがあります。
こと「性」というきわめてプライベートな問題は、一般論では捉えにくいところがあります。そのため私は、自分の体験を材料にすることを土台に、この問題を採り上げてきました。
ことに「越界-両生学」との視角から、そうしたアプローチを、人生二周目期に達したがゆえの境地、すなわち、「エロス・セックス」という身体の時代がたそがれた、「メタ・セックス」との視点で特徴付けてきました。
こうしたこころみが、はたして、どれほどの現実味を持ったものであるのか、その点は大いに未知数です。
これは改めてご案内する予定ですが、こうした「未踏」な領域の話題をはじめ、本サイトへのより広い視点を心がけるため、「読者フォーラム」といった意見交換のページを新設する予定です。設置は来年の早い時期に予定しています。
それに、「メタ・セックス」とは、それが「出口期」における「異次元な誕生」を契機させる窓口になりそうな気配があります。
次回は、あらためて、そうした二周目期ならではの「未来」への視点を、切り拓いてゆく計画です。