読み手側の判断力

〈連載「訳読‐2」解説〉グローバル・フィクション(その14)

今回の議論は、もっとも宗教分野に踏み込んだもので、いわば、「疑似科学」としての批判をもっとも招きやすい取り組みであると思います。

ただ、別掲のように、この二週間、私は北インドのヒマラヤの山懐に分け入り、ヒンズー教の神髄ともいうべき環境に身をおきつつ、時間をみつけては、この訳読作業もこころみてみました。

そうした経験から言えば、一種の「肌身に感じる」分野の取上げとして、ここに議論されている内容は、あながち根拠を欠くものとは到底言いきれない、宇宙へとも広がる、規模の大きな包み込まれる環境を実感できるものでありました。

そして、そうした体験を土台に、私自身の意識が大きく高揚――すなわち異次元化――されたことは疑いなく、それをもってしか得られなかっただろうと判断される、ある特異な深みを見出していたことは確かでした。

それを、実験再現性の欠如とか、普遍的繰り返しが不可能とかとして、考慮の対象から除外してしまうのは、あまりにも“食わず嫌い”で、発意刷新の精神を欠く議論ではないかと思います。

それに私にとっては、繰り返し言うように、そうしたいわゆる「証明問題」に関心は薄く、待ったなしの時間的制限のなかで、自らへの発揚効果さえ確認できるのであれば、それで十分なものであります。

ともあれ、そうした辺縁・境界的分野への踏み込みである今回の議論であり、読み手側の判断力を問われるこころみであるといえましょう。

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