創成の神話(その1) |
「在りのままであることの探求は、あらゆるこころみの中で最も危険なことだ。というのは、それは、あなたが生きている世界を壊すことになるからだ。」 ――ナイザルガッタッタ・マハラジ(インドの精神的指導者)
人類種の進化は決して終わるまい。私たち完璧ではなく、むしろ永続する未完成のプロセスにあり、目標は定まっていない。そして、私たちの現在の状況、つまり人間の要件は、この問題についての最終的な解答ではない。私たちは、災難から立ち直るために十分な粘り強さを持ち、自分自身を再興させるに十分な力を持っている。進化の波が私たちを前進させている中で、人類は活動している。
文明総体として、6000年前のメソポタミア時代から150年前の啓蒙時代までに、私たちがある程度の情報を集めたことは明らかである。その後、1950年までに、私たちはその情報量を2倍にした。それから、1950年から1970年までに、我々はそれを再び倍増させ、1970年から1980年にかけて三たび倍増させた。現在、ムーアの法則は、情報が18ヶ月ごとに倍増し続けると規定している。計算力は現在、人間の脳と同等レベルにある。それが10年後、コンピュータは人間の脳の既知の計算値の500倍に達しよう。私たちが感覚をもつコンピュータと共存する新時代に突入すれば、間違いなく、創造の新しい神話がそれに続くであろう。
人類の進化とすべての生命科学についてのこの考察は、人々が最初に内的世界を見るようになった時を始点とする必要がある。私たちの主従性の世界では、自分の考えを分け与え拡大することを望む選ばれた少数者が常に存在し、他の多数の人々は権力と支配のための宗教や霊性的教えに取り込まれ、蹂躙されてきた。真の愛に基づく霊性的伝統の学者たちは、遠い昔より、組織化された政治や家父長制度遂行者に代わるものを提供しようと努めてきた。神秘主義者――世界の錬金術師、哲学者、グノーシス派、秘密ないし神秘的学派の創始者など――の記銘すべき歴史と教えは、世界を解釈し、霊的知識を追随者に渡すよう努めてきた。テンプル騎士団、カタリ派、フリメーソン、イルミナチのような何世紀にもわたる他のエソテリックな伝統は、その善し悪しにかかわらず、すべて自らの支持者に利益をもたらす目的を持っていた。
統一された世界文明が徐々にの創造されてゆくにつれて、そこでは、真実だけが時の試練に耐えられるであろう。隠蔽された政策、人々の心を支配する力、そしてコントロールという問題は、その実態が何であるが明らかにされ、歴史の年表からは消え去ってゆくだろう。計画の最終的な一歩は、いにしえからの争いの平和的解決のために両派が相集い、両方の道の合体である文明を創造するために共に働く時、ただちにその活動が開始される運命となる。人間文明の至高が達成され、すべての制度と社会レベルで、古代ギリシャの「人を知る」という目標を達成することで、人々の霊的進化を完了させることができる。
人間の性質をより良く理解するためには、人の基本的な必要に精通していることが重要である。1943年、アメリカの心理学者アブラハム・マズロウは、心理学における最もよく知られた包括的な人間開発の概念化のひとつであり、人間の必要の階層構造の概念を開発した。マズローの「必要の階層」説は、人が生涯を通じて目指す共通する願望を述べている。このモデルは、多くの場合、ピラミッドの形態で表現される。ピラミッドの底部では、必要の根底レベルが特定される。食糧、住居、生存が焦点となる生命維持と安全の必要性という基底レベルでは、人は生存を求め、ただ生き残ろうと努力している。次は、友情、愛、そして安心のためのレベルであり、さらに、より高いレベルの願望と人間の可能性に移る。最上位レベルは、自己充足の必要であり、人格としての発達が花咲き、成熟し、経済的に安定し、生命の最盛期に至る。この階層構造では、より高いレベルを達成するためには、ピラミッドの頂点に向かって努力する必要がある。到達に最も難しいピラミッドの頂点は、私たちの自己実現である。つまり、選ばれた職業ばかりでなく、創造的で利他的な可能性を最大限にすることを目指す完全な人間となり、最終的には、個人の啓発を達成することである。
人生における自らの地位を熟想する余暇時間という贅沢を楽しめる人にとって、その時は本当に生きていることが驚異のような時である。また、それほどに幸運でない人にとっては、その時は、私たちの新しい目覚めを祝う時期であるだろう。意識の高揚を得ることは、余暇時間や財産とは別のものである。それは終局的には、人がついに霊理的に自覚し、能力を最大限に自己実現することに没頭できる時である。多くの人々は、私たちの目覚めが級数的に拡大していると感じている。私たちはこれまでに一度も見たことのないものを見始めている。創造のエソテリックな神話は、限定された範囲を越えて出現している。真実はかつてないほど明るく輝いている。確かにベールは上がり始めているが、混沌とした状態は変わらず、混乱が伴っている。移行は、我々が見たくはなかったものを明らかにするが、代替方法の必要性をより明確に示すだろう。そして元に戻ることはなく、全体性を持たないもの、真実でないもの、見せかけでしかない物が崩壊することは避けられない。本物でないものに、存在する場はない。
啓発状態に向って実践する者は、ますます光で満たされ、人間の経験をする霊理としての自然状態に覚醒するようになる。そして私たちは、すべての物質、たとえ私たちの「現実」ですらが、単にエネルギーであるとする、古代の直観を自然に再認識し始める。これは、多くの物理学者が、相対性理論を、そしてより最近では、量子論を用いて取り組んできたアイデアである。エネルギーと物質という別々の実体に疑問を感じたのは、霊理的な先達であった。時間と空間を含むエーテルの現象は、たんに心の結晶化にすぎず、それは何世紀にもわたりエソテリックな学者によって議論されてきた。今日、多くの科学者は、古代のヒンズー教徒に同意している。私たちが五感で知覚する世界は、思考の投影である。物質はその起源では非実体で、電子を生み出す普遍的なエネルギーの一時的な結合体である。あらゆる物質とは単に、原子核転換をすることで、形や様相を変化させているだけである。
エソテリック〔訳注〕の研究は、オカルトや宗教上の神秘派あるいはカリスマ的教祖と一緒にして考えられることが多いが、そうした特徴に限られるものではない。今日のエソテリック研究は、間違いなく、将来の確立された歴史と科学になってゆく。祖先のあらゆる原初の概念、信念、象徴、神話について考えてみるとよい。その多くは、今日のわれわれには意味を持たないか、あるいは広範な改訂をほどこされた伝統的知恵として受け入れられている。たとえば、地球は宇宙の中心でも、太陽系の中心でもないが、何世紀にもわたって地球の動き考察して、天文学という科学を生んできた。多くの神という多神観も、ひとつの真の神の概念へと発展した。したがって、たとえ古いものとみなされようとも、時に、象徴や神話はより良い理解の方向を私たちに教える。文明は常に簡素なものとして始まり、最終的には、複雑に絡み合ったものとなる。また、物質は確固なもののように見えるが、詳細に考察された結果、そういうものでないことが解ってきている。
〔訳注〕「エソテリック」という用語は、ここでは形容詞としても、また、「エソテリック流派/学派」といった名詞としても使われている。 |
エソテリックの文字通りの意味は、そう意図し、完全に理解した、特定の参画者のみによる、ということである。それは秘された知識であり、小さなグループに限定された限られた数の支持者によってのみ共有される。一般には秘密の情報であり、開示されてはいない。エソテリックはまた、知識や霊理的な知恵の本質である。エソテリックは、したがって、その第一が、内面的分野であり、敬虔な信奉者によってのみ完全に理解できるとされる。それを得るべき人のみがそれを得る。より大きな意味では、エソテリックは私たちの起源であり、私たちの内的な人間環境である。そして、エソテリック自身の中には、希少かつ「核心に触れる」信念がある。それは、「エソテリックの真髄」と呼ばれ、イクソテリックという弟子内部に限定されないことを意味すると流派とは逆であるが、一般大衆に広く布教され理解も可能である。イクソテリックは聖書の文字通りの意味に則った生き方の厳格な解釈であり、狭い視野へと導きがちである。例えば、「異教者を殺せ」という象徴的な宣言は、しばしばその通りに解釈される。イクソテリックは、過度に単純化された説明や物語を含む信念に盲目的なりやすい。この点で、個人的内省や、教えに疑問を呈する能力はなく、内面界への探索もない。エソテリックとイクソテリックの間には、メソテリックと呼ばれるもう一つの立場があり、それは人間性の中間レベルで、あらゆる宗教はこの立場によっている。
エソテリックの真髄は、師がその集団に招いた、忠実で、熟達した人たちのみが目指すものである。映画「マトリックス」の「ネオ」のように「赤の錠剤を飲む」ことを選んだ人は、「ウサギの穴がどれくらい深くても」、未知のものを探究するという意識的な決断を下さなければならない。「 求めよ、さらば開かれん」は、誰もの真実である。 これを実現するまでの時間は、完全に入門者の献身に依る。幸せと満足はエソテリックの真髄から生じる。この真髄は、みぞおちとも呼ばれる胸〔の部分〕を通じて人々を刺激する。その道をへた進歩は、意識の拡大によって促進される。最終的目標は、個人的な啓蒙以外の何ものでもない。
知恵の師のジョージ・グルジエフによると、霊理的な師がそのひらめきを得る際の真実の中心は、1915年に彼の徒弟で『奇跡の探索』の著者P.D. オウスペンスキーがこう引用している。
教師の価値は、教えていることの何を知っているかにはよらず、そのアイデアがエソテリックの真髄の実際の事実から来ているかどうか、そして教師がエソテリックなアイデアを理解し識別できるか、つまり、客観的で科学的で哲学的アイデアから主観的なアイデアを識別できるかどうかにかかっている。自分や他人を欺いたりする人物は、直接的にも伝承的にも、エソテリックの真髄とは結ばれていない。
真実の霊理性は2つのレベルに分離できるとされてきた。ひとつは、エクソテリックと言われる、公開され外化されたもので、このレベルは大部分の人が理解できるものである。他のものは、内化されたもので、よりエソテリックな教えであり、上級者のみが理解できるレベルである。したがって、エソテリック派は、世界の多くの異なった宗教の一部として、あるいはそれに付属して存在してきた。そうしたエソテリック派は、個人のレベルでアクセス可能な神性とのつながりを提供し、より高い水準や精神的な次元への接続を提供してきた。それは通例としてエソテリック派を通じて行われ、一般大衆を対象とするエクソテリックな宗教としてではなく、個々人が自らの内なる動機と目覚めの道について学んだものである。一般大衆向けに教えられた宗教的な教義は、恐怖を通じた操作とコントロールの目的を果たしたために、気付きの拡大にはしばしば障害となるものであった。
教義の奥深さを見下し、改変し、破壊する者からその秘密の知恵を守るためにエソテリック派は導入された。その師匠は、覚醒した霊理性水準を達成し、そうして学んだ教えを普及させる使命を果たし、あるいはそうした目覚めた使命をもって生まれた人として認識された。そうした師匠は、自分の教義を分かち、一方で、そのエソテリックな教義をいっそう深遠な教えとして享受しうる人に個別に与えつつ、他方、広く一般の人たちにはその霊理性をエクソテリック化して与えた。イエス・キリストはその完璧な原型で、エソテリックにもエクソテリックにもそれを教えた。つまり彼は、一般の人々には恐れることなく受け入れられる基本レベルを教え、弟子たちにはエソテリックな知識を秘密に与えた。歴史上では、いったん霊理的な人物が他界すると、その教義のエクソテリックな面が組織的宗教へと変形されることがよくあり、他方、そのエソテリックな面は秘密のままに実践された。残念なことに、あるいはおそらく皮肉なことに、そうした宗教の主導者はやがて、エソテリックな実践者に反対し、それを追い払った。
イエス・キリストの教えは、以下のように、エキソテリックとエソテリックの違いを明確に示している。
イエスはこのような多くの寓話で、人々の聞く力に応じて、その言葉を語った。そして、自分の弟子たちには、寓話によらず、ひそかにすべてのことを解き明かした。」――マルコ伝4章33-34
弟子たちが来て、彼に言った、「なぜ、彼らにたとえで語られるのですか」。イエスは彼らに答えて言った。「あなたがたは、天の王国の奥義を知ることを賜わっているが、彼らは、それを賜わっていないからである。・・・こういうわけで、わたしは寓話で彼らに語るのである。それは、彼らは見ても見ず、聞いても聞かず、理解しないからである。」――マタイ伝13章10, 11, 13
表象とは、それが表出するものを電磁的な符号に託した情報世界である。こうした表象は、私たちが何かに無意識の注意を払った時、自身の電磁界や精神に付されものである。つまり、注意が向かうところにエネルギーが流れるということである。知性の重要なマーカーのひとつは、表象的思考を操作する能力である。 表象は、世界中の神話や伝承の中に見られる。エソテリックな概念は時代を超える。すべての過去は現在であり、未来に通じる。表象は、意識的にも無意識的にも、私たちに大きな力をおよぼす。したがって、本書の後部では、一章の全体をもって、その複雑性を論じることとなる。
「グリモア(grimoire)」という名詞は、「文法(grammar)」という単語から派生した。文法とは、一連の表象の記述法であり、それらをどう結合して文章を作成するのか、その方法である。グリモアは、十分に、一連の魔法の表象の描写とそれをいかに正確に駆使するかの方法に関する指南法である。 グリモア教典の大半は19世紀から20世紀初頭にかけて作られたもので、ユダヤ・キリスト教ことにソロモン王の魔術に基づいた、伝統的なヨーロッパの魔法儀式の記述である。ネオ・ペイガンの伝習の多くは、ネオ・ペイガニズムと混同してはならないが、通常セルティック語――異なる語彙ではあるが――の類似の儀式と手法を使用する。署名の法則――現実世界のすべての対象が何か隠された意味を持っているという概念、ことに署名がどのように相互作用するかという概念――は、魔法の基本的な法則のひとつである。
様々な「神秘さ」に魅され、教育のエソテリックな意味を理解することができない人たちは、往々にして、エクソテリックな解釈を真実とみなす。なかでも特定の人々は、サタンまたはルシファーを崇拝の対象にさえ変える。ルシファーとは文字通り「光」との意味であり、それが「悪魔が人間に果たした最大の功績は、存在しない悪魔を信じさせたことだった」という金言の含みである。そうした人々は、深遠な哲学のための表象的な隠喩を理解できない。だが、こうしたサタン崇拝を軽視すべきではなく、彼らは一種の変節をとげ、頻繁に、膨大な額の資金源となっている。ルシファー協会が、そうした愚か者をも資金をも欠くことはめったにない。オカルト言語をつうじたこうした表象学の哲学を理解できず、来る変化のために考えを変えれない人は、絶滅の危機に瀕するかもしれない。その点では、「ニュー・エイジ」の語り手は、自らの意図を明確にしている。表象のピラミッドが冠石を欠いていることに気付かないことは、そのほとんどが、神秘学派の「偉大な仕事」が未完であることを意味している。さらに、悪魔は、世界中のオカルトやニュー・エイジ運動を動かしているとさえ言われている。彼らは、死者の精神から古代の神々、そして物理的なETや昇天した師匠にいたるまで、何者にもなり代わろうとしている。
「汝自身を知れ」とは、古代の無数の巡礼者の終点地となっていたデルフォイのアポロ神殿における言葉であった。その誰もがその簡潔な言葉を受け取るためにそこにやって来た。これが、アポロ神殿の若い巫女ピューティアの義務であり、岩の裂け目から湧き上がる湯気により熱狂状態となって、その神託を与えた。彼女は、意味のとれないことを語ったが、参列する司祭たちはそれをギリシア文学に保存されている謎めいた預言に言い変えた。与えられた言葉の大部分はアポロ神殿にやって来た求道者に関連していた。ギリシャの哲学者は、汝自身を知ることの理解をもって信じ、心の自由に到達し、統御された人間の状態の詳細がそれに続いた。自分自身の意識を高めていくと、私たちは思い込みから解かれ、水平な世界、すなわち、私たちの周りに現れるすべての有りのままさがえられる。そしていっそう感覚を増幅させることで、私たちは汝自身を知ることができる。私たちは、新たに目覚めた顔をその窓に押しつけ、まったく新しい世界をのぞき、驚きをもって見つめることとなる。
2000年後、エソテリック派の伝統は、女首領ヘレナ・ブラバツキーが率いる神知学会に引き継がれた。この一派はオカルトを研究し、暗号化されたエソテリックな主題を研究し、ニュー・エイジ運動を今日のものへと変容させた。 神知学会の3つの目標は、第一に、人種、肌の色、あるいは信念の区別なく、人間性の普遍的協会を創造することであった。第二は、世界の宗教の研究を促進することで、第三は、自然の隠された神秘性を調べることであった。ブラバツキーは、「ニルヴァーナ〔涅槃〕に到達するためには、人は自己知に到達し、自己知とは愛の行為の子である」と述べた。すべての神秘派の中核にある哲学は、世俗化されたヒューマニズム――社会主義または共産主義の基盤であり洗礼台――である。数十年後、ニュー・エイジの信条は、神知学会が取り残したところを取り上げた。ニュー・エイジは、以下の要因のいずれか、またはその組み合わせによって定義することができる。即ち、占星術的あるいは黄道術的な信念、チャンネリング、瞑想、「全一思想」あるいは一元論、人間神、そしてエソテリック主義。そしてエソテリック主義にあっては、それは古代のテキストを再解釈して隠された意味を見つけるための探求とされ、それが世界のすべての宗教を一つの信条に統一するという最終目標とされた。
多くの人が、フリーメーソンは、中世のテンプラー騎士団を通じてその知恵を伝え、古代の神秘を数世紀にわたって守ってきたと信じている。古代の神秘は、人間の心の力の概念を扱っている。 フリーメーソンは、人間の心の偉大な力を公に祝福する。その二次段階の儀式では、彼らの言う「ここで人間科学の神秘を学ぶ」という条項が実際にある。同様に、1920年代には、マンリー・P・ホールというカナダ系アメリカ人――ロサンゼルスで哲学研究協会を設立――によって『全時代の秘密の教え』が書かれた。同協会は、古代人の知恵――主に人間の神性――を研究した彼の思想、すなわち、いかに私たちのそれぞれが理性を超えて、至高レベルの意識を達成することができるかを引き継いでいる。
現代物理学は、古代のシャーマンたちが長い間にわたって認識してきたことを描写している。太古のアメリカ大陸や他の地域のそうした知恵主たちは、ただそれが目で見えるという行為を根拠に世界があると、私たちが夢見ていると言う。科学者たちは、微細な素粒子の世界でのみそうであると信じている。だがシャーマンたちは、もっと大きな世界でも、私たちが感覚をえることでまた、夢を見ていると理解しているのである。
形而上学的な研究の道を追求するなかで、いまだ、学ぶべき秘密や深遠なエソテリックな教えがあるのだろうか。例えばフリーメーソンは、表象と意味に富んだ伝統を持っている。その入会者は、エソテリックなメーソンリー〔石積み造り〕とも言うべき、知識と霊理的な 「フリー〔自由〕」に達するため、発見と研究とその結果の理解という、長く込み入った道を進まねばならなかった。一般人や入会者は、その直角定規や磁石――よく知られたフリーメーソンのシンボル――が、判断と認識の概念を代表していることを理解することとなる。しかし、儀式を通し、メーソン者としての実践を身につけた者だけが、これらのシンボルのエソテリックな意味を真に知る。これらのシンボルは、フリーメーソンとなった時のみにパワーを持つ。一人の新弟子を導く師匠メイソンは、在任の会長だけが完全な意味と彼の儀式の力を真に知る、メイソンリーの生きた深さを知ることとなる。
カトリック司祭がキリスト教信者に聖餐を提供するとき、パンとワインはキリストの体と血に代わるものとされ、司祭も信者も共にキリストの意識と教えに触れうることとされる。ほとんどのクリスチャンは、用いられた道具立てで真の変化があることを否定する者でさえ、この儀式においてキリストの特別な存在を認める。司祭は、自身の導き、教育、信仰の実践を通して、自分自身のそうした聖餐の理解を具現化する。彼が聖餐を提供するとき、彼はその行為の有効性を知っている。そしてその認識は体、血、意識を振動させる。人がカトリック信仰とそのシンボルを体験するために心を開いている場合、その人はその儀式の完全な意味を受け取ることができる。だが、人がキリスト教の信念とシンボルに懐疑的であるか、ただ気づいていない場合、そのような深い意味を体験することはできない。聖餐の時、人の心が開いており、キリストの神秘と教えを受け入れるなら、その人は多くの人々がそうしてきているように、霊性的な目覚めを経験しうる。
私たちは、長年の研究やその「表象的」言語の完璧な知識なしには、神秘学派やイルミナティの枝の哲学を理解することは不可能である。 人がそうした「協会」――それが、フリーメーソン、神知学会、人知学会、薔薇十字会、テンプラー騎士団、マルタ騎士団やその軍隊、そしてその他の友愛組織や秘密結社のいずれであろうと――の一支部に属すと、誰もそうした意味を説明する者はいない。 実際の文字通りのエソテリックな教育は、あまりにも当然なものとされる。そこで、社会に公開する要請となり、特別に秘密のイルミナティは避ける必要があるとなる。
「祭礼」の構成は、「階級」のピラミッドをなし、それはフリーメーソンで最も簡単に理解される。 一番下には、無知で物質主義的で、きまぐれな愚者で満たされ、俗にいう「ブルー」会員をなす。有望な候補者は抜擢され、すでに同じ道を進んだ者の手ほどきをえて、入門のはしごを登る。新入者は、勉強、書物、シンボル、儀式、友誼の対象を提示されるが、インスピレーションや「輝き」は内から示されなければならない。
フリーメーソンの「入門の階級」を例に挙げると、この秘密結社は各レベルの最終的な啓発への新たな鍵を提供するが、それは各階級の儀式とシンボルを真に理解できる人だけに限られる。秘密を維持するための理解や人的能力が止まると、候補者の進歩も終わる。第29階級以上の者だけが、フリーメーソン祭礼の究極の秘密と目標を理解する能力を持つ。フリーメーソンの世界では、これは「ヤコブのはしご」と呼ばれ、入門者を鼓舞する階級の序列を象徴し、祭礼儀式や、次の階級への各入り口や各階級で誓った宣誓に従う。それに成功すると、各階級のさまざまな象徴的記念品、贈り物、情報、思い出の品が授与される。異なるレベルの特定の要素は、その階級自体とともに、象徴的な意味や他者へそれを代表するものとなる。フリーメーソンでは、選択された少数だけが、ヨーク儀式と呼ばれる第13階級またはスコットランド儀式と呼ばれる第32階級を超えた昇進のために選抜される。選択された者はベールの後ろに消え、「千の光の点」の1つになり、「マギ」としてよく知られることとなる。入門には垂直方向と水平方向の経路があり、異なった祭礼と秘密結社の間のより高い階級を相互に結んでいる。例えば、第32階級フリーメーソンは、それぞれ表象学と神話学で満たされた100以上の階級を実際に持つことができる。
究極の「秘密」とは、秘密の約束を守って多数の「シープル〔羊のような大衆〕」を――彼らが自身を「選挙された」と信じさせることをもって――コントロールする方法である。その目的は、自分たち以外のすべての宗教を排除し、すべての国家をなくすことで、すべての物、すべての人、すべての場所、すべての日々の瞬間を、永遠かつ完全に管理し所有することである。この「分断」は既に着実に進められている。フリーメーソンはそのメンバーに、「至高の存在」にあると信じている限り、どの宗教に入れとは求めない。それは表面上は興味深いことであり、「彼ら」は誰も、社会の他の部分と共通しているかに見える。しかし、教え込まれた数十億の大衆は、フリーメーソンの持つ「共通の絆」や他の秘密――「我々は、君たちが教えられたことなぞ信じてはいないが、ともあれそういうふりはしてゆく」――を持っていない。
歴史を通し、様々なシンボルが消え去ることのない表象を残してきている。その最も強力なシンボルが蛇であり、花咲く知恵に捧げられた古代寺院ならどこでも、変わることなくその証しとなってきた。二匹の蛇が巻き付いたつえは、時には誤って、医学やの医療行為の象徴として用いられてきた。古代のアダムとイブの物語以来、蛇は知識と性という二面を表しており、両者の密接なつながりを暗示している。そしてその隠された意味は、私たちの各自の「創造力」は、肉体的または精神的な意図で使用されるかどうかにかかわらず、単一の力であるということである。そこで私たちは、この力を、上向きか下向きかのいずれに向けるのかという、選択肢をはらんでいることとなる。
洋の東西を問わず、すべてのエソテリックな体系において、蛇性は知恵に代り、ソフィアとも呼ばれた。アジアや西洋の神秘学派では、そのとぐろを巻いたエネルギーの主は「知恵の蛇」と呼ばれていた。最も初期の秘密結社の1つは、蛇協会とか竜協会とかあるいは他の異なった名前で呼ばれた。蛇協会は、「年齢の秘密」を守ることに献身した。これらの協会の秘密は、選ばれた教育ある少数の人だけがそれらを利用し解釈することができる、それほどに深いものと考えられた。
アジアの神秘的な実践でとして知られる精神身体的エネルギー「蛇の力」は、電気のような渦巻くエネルギーである。 クンダリーニのエネルギーは、宇宙にも、地球にも、そして人体にも共に等しく属し、かつ、私たちの体質的ならびに精神的な構成に統合している。それは、女神の神性やシャキティと普遍的に等しいとされている。クンダリーニを発生させることは、何千年も続いたヨガ修行の目的である。
蛇の力はまた、神的なエネルギーの一形態で、アヤフスカ夢幻状態になった無数の人々によって目撃された知性である。ベテランのシャーマンは、この蛇の力は自然の力動であると主張し、アヤフスカ夢幻で変化した状態で繰り返し遭遇する超自然生命体であるという。 サッチャ・ママは、アマゾンの蛇の知恵の女神であり、オーストラリアのアボリジニの虹の蛇と同等の存在である。 無数の他の例や同列の「女性精霊性原理」のが見られる。 物質主義的な人々や原始的な人々では、蛇は純粋に出産や官能的な満足のために使われてきている。しかし、人々がより高い理念を目指すにつれて、精神的に創造し霊性的に生きることを切望するように、蛇の力は徐々に脳の創造的原理へと格上げされている。
【つづく】
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Modern Esoteric: Beyond our Senses by Brad Olsen
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with permission, (c) Brad Olsen, 2016