瓜二つ議論、あれこれ

〈連載「訳読‐2」解説〉グローバル・フィクション(その71)

今回の訳読の冒頭に、またしても「イルミナチ」のタイトルが掲げられています。正直いって私には、この「イルミナチ」については、何度読んでも、すとんと飲み込めないものがあります。本書の著者、ブラッド・オルセンによれば、まさに、その飲み込み難さがイルミナチの正体として、本書でも、前書でも、繰り返しそれをとりあげています。そして一つの見方として、それは地球に住み着いた“宇宙の悪魔”でもあるかのように。

今回の「イルミナチのシンボル」を読むにあたっても、今年初めの、「秘密の家族」の章の冒頭部分に目を通してからにしてみるのも、理解の早道かも知れません。

そしてさらに、今回の訳読『聖なるシンボル(その2)』を「メビウスの輪」にまで進めてきた際でした。その中の「ウロボロスの蛇」の議論を読んだ時、私は思わずうなってしまいました。というのは、この論旨は、前回の「両生“META-MANGA”ストーリー」の「俺の“真言” (MOTEJIレポートNo.17)」中の、「《し》という通過儀礼」と、まったく類似しているからです。ことにそこで言う「葬式ではなく、《再・誕生》式」という議論は、本訳読で言う「私の終わりは私の始まり」という議論と実に瓜二つであるからです。

(ということは、空海の真言とウロボロスの蛇とは、同じことを言っているということなのでしょうか。)

興味のおありの読者には、両方を読み比べてみることをお勧めいたします。

 

それに加えてまたさらに、去る2月10日、石牟礼道子さんが亡くなられましたが、彼女が生涯をついやして伝えようとしたことと、この訳読本の原著者ブラッド・オルセンが言わんとしていることは、その奥底で呼応しあっているところがあると感じられます。たとえば、石牟礼さんが「生類のみやこはいずくなりや」というその想いと、オルセンさんが「シンボル」という用語で言わんとしている世界は、着眼の角度こそ違え、深いところでは、つながりあっているように思われます。

ちなみに、私は、そうした東西の見解の綱渡しのために、「霊性」なぞと生硬な用語に頼っていますが、石牟礼さんが使う「魂」という言葉には、すこしも違和感をもちません。

 

では、「聖なるシンボル(その2)」へご案内いたします。

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