いまや科学と世界像は、新たな夜明けを迎えつつあり、創造と至高の力の違いが識別しえないものになろうとしている。というのは、一般に「神」と呼ばれる至高の力それ自体が、創造の一部となろうとしているからである。これを基礎構造レベルで観察するのは困難だが、神秘主義者はいずれも、「創造者」自体は唯一であることを明らかにしている。ともあれ、私たちはだれも生命をもち、その生命力は究極的には共通の根源から発している。したがって、私たちとはその何かであり、その何かが私たちである。
私たちすべての意識はそれぞれに違って見えるが、いずれであろうと、単に意識だけが存在しているだけである。そしてその意味は、私たちの核心において統合されている。宇宙においてはすべて――宇宙、動物、植物、人類――が私たちの核心においてつながっている。この認識は現在、量子力学とひも理論によって支持されており、これは、私たちがそもそも、基本的に統一された超ひも場の振動波であることを示唆している。つまり、ただ一つ、意識がありのみで、それは私たちだれもの中にある。人間をそれほど独特なものにしているのは、私たちが何を信じ何に焦点を当てるかを決める、私たちの自由意志と選択である。人間は、宇宙の他の知的な存在――活気に満ちた精神や集団的意識基盤を動かしている――とは異なっているように見える。私たちは神経系のフィルターを通して自分の意識を個別化しているが、意識そのもの――私たちの内面主観、つまり、より大きな意味での自己――は普遍的である。経験を通してこの区別を知ることは、時代をこえて、悟りと呼ばれてきた。
人の生涯はその人の頭の中でおこる思考が身体的に表されたものである。私たちは誰も、これを自分自身のこととして理解する必要がある。何世紀にもわたる対立をへた後、科学と宗教は最終的に、量子物理学の革命的な発見を通じて、霊性の理解において共通の根拠を築きつつある。聖書の箴言23:7でさえ、この魅惑の基本的量子法則を述べている。「人が心の中で考えるように、主もそうである」。霊性的な自己覚醒が自由への鍵である。
あなたが量子物理学の最先端で取り組む科学者でないないかぎり、「科学が告げていることは何か」という問いを持たなければならない。スティーブン・ホーキングを読み、その言葉のすべてを信じることと、偉大な聖人の予言を読みそれを信じることとの違いは何なのか。いずれであろうと、あなたが本当に知りたいのであれば、あなたは一生をかけて、学ぶようなんとか努力して自分自身で知らなければならない。そうでなければ、それはすべて「信仰」である。真の霊性とは、私たち一人ひとりのための個人的な探求であり、私たち自らの個的証明としての自身である。
量子物理学は、星間宇宙旅行、タイム・トラベル、他の超人間能力とのテレパシー、そして「宇宙意識」への働きかけはもはや合理的、といった世界像への窓を開く。こうした課題は好奇心をそそる可能性ある科学的可能性――ETとの接触すら――をもっともらしくさせている。私たちは、かつて想像もできなかった無限の霊性的可能性に目覚めることができる時、大きな岐路に立つ。私たちは自らの主権を取り戻し、そして最終的にはこの惑星を刑務所からパラダイスに変える能力を持っている。個々人の進歩を妨げる唯一のものは、彼または彼女自身である。私たちがユートピアの黄金時代の発端にあることを発見した時、仏陀は私たちの個々の進歩――世界全体にも恩恵となる――を誇りとするでしょう。
私たちは、幸福に関するダライ・ラマの言葉に従うだけで、他の諸課題に至ることができる。曰く、「もし他の人を幸せにしたいをなら、思いやりを実行しなさい。 もしあなたが幸せなりたいなら、自分を思いやりなさい」。だが、科学的研究は、思いやりを実践することの具体的な身体的利点があることを示唆している。思いやりを実践する人は、老化を妨げるホルモンであるDHEAを100パーセント増やし、「ストレスホルモン」とも呼ばれるコルチゾール分泌を23パーセント減らす。
加えて、その他の感情的で霊性的な利点もある。その主なものは、思いやりが私たち一人ひとりを幸せにするのに役立ち、それが広がることによって、私たちの周りにいる人たちがもっと幸せになれるということである。もし私たちがそれぞれの人が幸せになれるように努力することが共通の目的であると同意するならば、思いやりはそうした幸福を達成するための主要な道具となる。ゆえに、私たちは毎日の生活の中で思いやりを育み、実践することがとても重要である。それにはどうすればいいのか。あなたの人生で思いやりを育むための鍵は、それを毎日実行することである。ダライ・ラマの以下の言葉のように、毎朝の儀式として始めょう。「今日、私は目が覚めて幸運です。私は生きています。私は貴重な人生を送っています。私はすべての私の精力を使って自分自身を発展させ、他の人に心を広げ、すべての存在のために悟りを達成するために、私は他の人に優しい考えを持つつもりです。私は他の人に、怒ったり、悪く当たったりはしません。私はできる限り多くの人に恩恵を与えるつもりです」。あなたの毎日の日常生活の中で思いやりを実践し、他の人に名誉を与える機会を確かめよう。強欲と無関心に背を向け、気遣いと世話に向かおう。
ブッダの最後の肖像画では、笑顔を浮かべているように見え、しばしば横になった姿で、涅槃に達しつつあるように、博識で自信に満ちている。ブッダの良く知られた横たわる彫像は、彼の生存最後の日を表している。彼は、誇らしく充溢し、すべてを見渡し、永遠で、生気に満ち、死を前にしても何ら恐れていないように見える。存在することを恐れることなく、いつも完全に生きているように、全面的な視点で、豊かな存在であるように見える。ブッダの国に生きることは、男としてでも女としてでもない。誰でも、たとえ生の最期にあっても、生きている存在の輝きを求めることができる。誰もが偉大で崇高な運命のもとに生まれ、同時に、私たち一人ひとりが深い人生の教えを学ぶ必要を持っている。ブッダは私たちに、そのはかなさがゆえに、人生の物的事項に執着しないように説く。また、はかないのは身体も同じで、歳をとり、死をむかえるのは避けられなく、その霊性のみが再生でき、望むべきは、次回はより好ましくありたい。生きているものはすべて、生まれ、消え去る。学ぶべき教訓は、不変である。変化は恐ろしいことではなく、単に多くの自然順序の一つとして理解される。
仏教には、それが死に面している至高存在への崇拝はない。代わりに、その生涯中に広がった信奉への着目がある。悟りとは、完全に成就し完成した信徒になることであり、その信徒が先達となることである。仏教の中には、すべての生き物の中の完璧さへの傾注がある。私たちはすでにその各々に「ブッダの性質」を持っている。その課題はただ、目を覚ましてそれが認識できるかである。そこに到達するには、私たちの壁を越えて見る必要がある。そこで私たちは、永遠の流れに向かって機会が開いているうちに、ぬるま湯から出発しなければならない。私たちは、心を静かにして、自分自身をすべて一人のブッダにする必要がある。その気持ちが乱された時には、ただ息をすることに集中しよう。瞑想では、これを現在の存在、偉大な完璧さと呼び、悟りに至ろうとする存在に、広大さと無限さと表現される視点を与える。そして、それが、霊性が身体を離れる時にあらゆる仏教徒が努める時ことである。このような移行は、外傷とか恐怖を伴なわないなめらかな過程であり、私たちが死ぬ時、私たちの多くが越えて行くところのものである。
生と死は、常に分離不可能であると知るべきである。死はいつも私たちに伴っている。それを知れば、私たちは未知の世界にあっても、笑顔でいられる。瞑想は、死に向かってのリハーサルである。死の過程における実際の作業は、他人を招待し、悲しみと痛みを表すことである。私たちの生活との私たちの関係もまた、私たちの人生と周りの人たちの一部を失なうことに関わっている。仏教徒は、戒律をあなたの指導者にしようと言うだろう。あなた自身の光となりなさい。苦しみの本質を理解しなさい。世界は苦しい場所でなければならないわけではない。苦しみは選択である。私たちの行動には結果があることを理解して、他の人たちが続くことのできるような道を歩むように努めなさい。ブッダの最後の言葉は、単に「目を覚ました者として私を思い出しなさい」というものだった。
年齢2,500歳の宗教でありながら、仏教は西洋文化と科学的に顕著に共通しているようであり、それは、アメリカでの急激な人気拡大を説明していよう。過去15年間で、米国の仏教センターの数は2倍以上となり、1,000を大幅に上回っている。現在、400万人ものアメリカ人が仏教を実践しており、総督派教会の総数を上回っている。ある調査によると、これらの仏教徒のうち半数は大学院の学位を持っている。 ダライ・ラマは新機器マニアとして知られ、特定の機器がどのように働くかについてこれほどに好奇心のある人はいない。彼は、科学的方法の提唱者で、「もし科学が仏教のいくつかの信念を間違っていると証明すれば、その仏教は変わらなければならない」と主張する。これは他の宗教の指導者からはさほど聞かれることのない声明である。
〔前号でも触れた〕『A Course in Miracles』と題する本は、霊性を扱う現代西洋の文書のひとつで、驚くほど仏教の教えに似ており、何百万人もの霊性追求者によって実践されている。1960年代、無神論者の臨床心理学者ヘレン・シャックマン博士(コロンビア大学の内科・外科医学部)が内面への旅によって得たとするこの本は、その「まえがき」にこう述べている。「現実が脅威になることは何らない。非現実的が存在することも何らない。ここに神の平和がある」。それは、現実――真実、統一、一体性、愛、知識などと呼ばれる――と非現実――知覚、分離、恐れ、罪、攻撃などと呼ばれる――の間の本質的な識別をすることによって、仏教が説くように、私たちの知覚世界は幻像であったことに気付く、と論じている。真実は「不変で、永遠で、あいまいさがない。だが知覚世界は、時間と変化と始まりと終わりのある世界である」。この真実とこの知覚から、2つの異なる思考システムが生じ、それらは「あらゆる面で逆である」。すべての行動は私たちが固守している思考体系に由来している。したがって、この本の目的は、愛の意味は教えるものではなく、「それは教えられるものを超えるもの」として、「そのために、あなたの自然な遺産である愛の存在に気付かなくさせているものを取り除く」ことである。
『A Course in Miracles』は、仏教のように、すべてが心から来ていると述べている。心が原因であり、それ以外はすべてその結末である。時間と空間の宇宙は巨大な投影であり、「それを捉える」ことは、新しいコンセンサスが現実となり、私たちが心を変えるまで、常に無意味に終わる。〔この本の〕練習問題集は、心を、恐怖と攻撃から愛と癒しへ、また、私たちの富と安全への献身からすべての人に奉仕すること、へと変化させることを目指している。そのための手段は、特定の種類の許しを実践し、知覚の根本的な変化をもたらして心の平和をもたらすことによる。そしてその変化は「奇跡」をもたらす。この教えは霊性と心理学――私たちが卑小なエゴを起動させた時、心がどのようにして防衛機構を働かせ、消滅の恐れから自分を保護するかの心理学――の素晴らしい統合である。その目的のために、本文に加えて、365の練習をさせる練習問題集が付随しており、仏教が言う非執着を達成することを助けるよう考察されている。すなわち、身体的で物質的な安全を欠く不安感覚を解き、隠されてきた無限の存在としての私たちの真の自己自身の出現を許す。この書は、宗教的用語を再定義し、ユダヤ・キリスト教の西洋文明に浸透している多くの誤解を正すために、普遍的な精神的課題を使って議論しているが、同書は、カルトまたは宗教目的のそれではない。同書はどこまでも実用的で、この知覚における「奇跡」的変化は、文字通り毎日の出会いや活動――エレベーターの中で見知らぬ人に「こんにちは」と挨拶したり、配管工と話をしたり、教室で講義したり――の隅々にしみわたるものである。それは、20世紀の厄介な西洋文化とそれを超えるよう独自に考案された、心理学的に優れた自己学習体系である。
仏教は、たとえ「神」という言葉が使われていなくても、機能的には、有神論的哲学体系である。一方、本書『A Course in Miracles』は、敬愛すべき天の象徴たる「神」を語り、明らかに、処罰をする神とすべての誤った連想のもたらす、ほとんど無意識の恐怖を軽減させようとしている。仏教は、その近親の宗教のヒンズー教のように、輪廻転生を説いている。これは、死後に私たちの魂が新しい体に再生化され、道徳的な因果の法則がこの変容に伴って維持されるものである。だが、いったん生まれ変わった者にとって、悟りを成し遂げるための主要な手段は瞑想で、それは仏教徒と代替医学実践者の両方が、私たちの心を鎮め解放し始めるために有効な方法である。結局、黙想は内なる声にアクセスして、悟りと解放を達成するための道具なのである。
西洋の仏教徒は、時には、超自然的要素を軽視して、仏教はそれほど宗教的ではなく、幸福を達成するための実践技法であると主張する。彼らはブッダを、形而上学的な思考を避け、人生から受難を減らすことに費やした実践主義者として描いている。仏教学者のロバート・サーマンが書いたように、仏教は「内的科学」であり、私たちの心の可能性を実践するための実践的規律である。その究極の目標は、時には悟りと呼ばれる、超自然的な至福、知恵、道徳的恵みの状態である。しかし、仏教でいう天国は、そこに着くために、死なねばならないわけではない。
仏教は、ともあれ、実用的である。その目標は、自分の経験を苦しみの状態から涅槃〔ニルバーナ〕と呼ばれる苦しみのない状態に変えることである。仏教は、概念や信念の集合と見なされるべきではない。直接的な経験に基づかない概念は、霊性的な道には役に立たない。あなたが輪廻転生を信じるかどうかは重要なことで、それがブッダの教えの意図にどのような意味を与えているのか。だが、〔その回答は〕明らかに、「何もない」である。人間の苦しみを解決する生きた経験や状態が涅槃〔ニルバーナ〕である。概念や信念が、もしこの意図を支えないのであれば、無用である。
ブッダは語る、「存在の究極の秘密は、恐れがないことです」。「真実を自分の光としなさい」の意味は、もし私たちが、得体の知れない恐怖を感じず、代わりに、真実と愛を感受できるならば、私たちは戦いの半分を勝利しているということである。ブッダは信徒から「瞑想から何が得られるのですか」と尋ねられた。彼は「得られたものは何もない」と答えてこう続けた。「しかし、私が失ったものがあります。それは、怒り、不安、抑うつ、不安、危険、老齢と死の恐怖です」。自分の内を見つめることは、おそらく何も得られない個人の努力だが、それにより、すべてが失われる。これは、地球がこれまでに知った最大の巨匠からの永遠の教訓である。その彼はこう語って人生を閉じた。「結局、人生に重要なことは三つしかない。自分は、どれほど愛してきたか、どれほど優しく生きてきたか、そして、どれほど率直に、自らのためにではなく、物事を成してきたか」。
マハトマ・ガンジーは非暴力の宗教的原則、「傷つけない」を守り、後に有名なサチャグラハ〔無抵抗非屈服〕または「真実の力」の原則へと発展させた。彼は敬虔なヒンズー教徒ながら、その名のマハトマすなわち「偉大な魂」であるとおり、ブッダの性質も備えていた。ガンジーはこう述べている。「自分の考えを信じ続けなさい。なぜなら自分の考えが自分の言葉になるからです。自分の言葉を信じ続けなさい。なぜなら自分の言葉が自分の行為となるからです。自分の行為を信じ続けなさい。なぜなら自分の行為が習慣になるからです。自分の習慣を信じ続けなさい。なぜなら自分の習慣が自分の価値になるからです。自分の価値を信じ続けなさい。なぜなら自分の価値があなたの運命になるからです。」(with permission, (c) Brad Olsen, 2018)
ブッダの言葉、「すべては心に基づいており、心によって導かれ、心によって形作られている。あなたが汚れた心で話し、行動すると、牛車の車輪が牛の足跡をたどるように、苦しみがあなたに続く」の論理的意味は、「すべては心に基づいており、心によって導かれ、心によって形作られる。あなたが純粋な心で話し、行動すれば、あたかも影のように、幸福があなたの後を追って行く」。(with permission, (c) Brad Olsen, 2018)
【本章完了】
参考文献
Smith, Huston. The World’s Religions, 50th Anniversary Ed., HarperOne, 1991.
Thurman, Robert, His Holiness the Dalai Lama, Infinite Life: Awakening to Bliss Within. Riverhead Trade, 2005.
The Buddha: The Story of Siddhartha. Richard Gere (Actor), David Grubin (Director), 2010.
A Course in Miracles, combined volume (2007), Foundation for Inner Peace, 1976. For comprehensive and accurate information, please visit www.acim.org.
For a discussion in the vernacular of core Course in Miracles principles, see Renard, Gary R. The Disappearance of the Universe. Straight talk about illusions, past lives, religion, sex, politics, and the miracles of forgiveness. [2002]; Hay House, 2004.
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Modern Esoteric: Beyond Our Senses, by Brad Olsen
http://cccpublishing.com/ModernEsoteric www.bradolsen.com
with permission, (c) Brad Olsen, 2018