「性的マイノリティ」と「自分実験」

二者間に橋渡しをする

本稿の目的は、二つの視点間に橋渡しをするものです。そしてその二つとは、このサイト『両生歩き』の「私共和国」で述べられている《老化に伴う「性的マイノリティ」化――「《「男の急所」の料理法》その2」――と、兄弟サイトの『フィラース Philearth』で述べられている《人生という「実験」》――「理論人間生命学」第2部――です。そしてこの橋渡しとは、言わば、私たち自身に関する微視的視野と巨視的視野、あるいは、現実的視野と理論的視野のそれぞれの二者間を関連付ける架橋との意味合いを持つものです。

まずはじめに《老化に伴う「性的マイノリティ」化》ですが、私はこの別掲の記事で、自分の老化にともなう前立腺問題に関し、ことにそれが前立腺癌にまで進み、その全摘手術までもが絡んだ場合、そこに〈性的アイデンティティー(ID)〉問題が発生してきたことを述べました。すなわち、私の場合、そこまでもの、しかもこの年齢に至っての、そうした病的体験をもってしてようやく、一種の「性的マイノリティ」の問題に触れうる状況に至ってきているということです。つまりこれが、「微視的視野」にこだわった「現実的視野」に立つ観点ということです。

その一方、老化に伴うこうした一連の揺らぎを迎えるまで、その〈性的ID〉は自分の〈全人的ID〉の中にとりこまれてともあれ統合されており、あえてそれを取り出して問題にする必要はありませんでした。そうした安定したID状況が、老化による前立腺問題によってあぶりだされるように、〈全人的ID〉と〈性的ID〉というように分化せざるをえなくなってきたということです。言うなれば、老化を通しての「LGBTQ+」問題との遭遇です。

 

私はこの遭遇をもって得ることとなった認識である「LGBTQ+」問題とは、生殖能力の規範的機能の辺縁部にある、その典型性では捉えきれない、ある意味での異変性についての認識です。そして、その「典型性」と「異変性」とは、私の場合は、老化を通じて識別できるようになったのですが、しかし、そのギャップは本来、社会の制度や慣習による枠組みがもたらす産物ではないかと見ます。したがって、そうした枠組みが働かないところでは、そのような「典型か異変か」という単に二元的なものではなく、一種のグラデーションとして、連続的かつ多様に存在しているのではないかと考えます。つまり、〈性的ID〉とは、それほどに個性的なもので、言うなれば、誰もが〈性的マイノリティ〉と捉えてもよいのではないか、というものです。

 

以上は、誰もが持つID問題を、性的区別の角度から見てきた見解です。

しかし、IDには、性的なそれのみにとどまらず、もっと多種なそれがあります。

たとえば、老化の入り口であるリタイアメントを通じて、それまで長く維持してきた被雇用者、平たくは「会社員」としてのIDを失ったはずです。

さらにもっと以前、学生時代を終えて社会に出た時、確かに、学生としてのIDを卒業し、社会人としてのIDを付けることに努力した記憶があることでしょう。

そのように考えると、私たちの〈全人的ID〉には、その時々に応じて、いろいろなIDが形成され、その変化を体験してきた結果の累積したそれということです。

つまり、自分のIDとは、極めて社会的なもので、その中にはいろいろな要素を土台にしたIDがあるということです。

したがって、それぞれの社会を反映した多様構成をもつ私たちの〈全人的ID〉には、性的な基準以外にも、多様な基準にもとづく各々の《マイノリティ問題》を含むはずで、そういう様々な《マイノリティ意識》統合したものとして、私たちの〈全人的ID〉があるものと考えられます。

すなわち、そう言う多様な構成体こそが、私たち各々の《個性》ということなのでしょう。

 

そういう《個性》を、創造性の源、少なくとも独創性の基盤と捉えれば、その開拓の方法とは、自分のうちの《マイノリティ要素》の発見に努めるとか、時には、あえて自分をマイノリティに追い込んでゆくということとなりましょう。

論点がここまで進んでくると、いよいよ、橋渡しの効果が見えてきます。

つまり、このように、「自分をマイノリティに追い込んでゆく」ということは、私が別のところで述べている、《人生という、自分をサンプルにした実験》そのものです。

この視点は、それが展開されている兄弟サイトの『フィラース Philearth』の「理論人間生命学」とのテーマが示しているように、「理論的」活「巨視的」視野から導かれているものです。

 

こうして、「現実的・微視的視野」と「理論的・巨視的視野」の間に橋渡しが出来上がった地点に立ってみると、「個性」とか「自分らしさ」とかと自分のIDを追求してゆくことは、この社会における自分のマイノリティ性を発見してゆくことと《同義》であることが見えてきます。

言い換えれば、「自分磨き」とか「独自性」とか、ひいては自分の「創造性」といった個性=マイノリティに関わる作業は、おしなべて、どれだけ自分をまな板にのせてそれを切り刻んでゆけるかをめぐって、自分をサンプルにした実験にほかならないということです。

 

 

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