前回では、コロナ危機をめぐる「資本の論理」〔Logic of Capitalist〕の関わりを、歴史的な足跡をたどって探索し、それがこの危機の不可視な頂上推進者であることを推論した。ならば、その推論をさらに進め、現在進行中のこのコロナ危機においても、その「資本の論理」の果している実際の――ひょっとすると予断をもくつがえす――「推進」がないわけはないだろう。それについて考えてみたい。
その考察に当たって本稿では、これまでのような「人為説」や「自然説」といった二分法はとらず、むしろ、その両者をあえて分けないアプローチ、言わば《人為自然両属》説をとる。というのは、今の世界の趨勢を見渡せば、そのウイルスの正体解明もすすまぬまま、人類は、防戦一方の感染抑え込みの戦いに奔走させられている。それはあたかも、コロナウイルスの先制攻撃により、人類のヘゲモニー(主導権)が乗っ取られたのも同然な様相であり、いかにも不気味な発展である。
つまり、現在、世界で進行していることは、その感染発生の人為説や自然説といった順当な設問など、はなから吹っ飛ばされたにも等しい設定が先行しているかのごとき「事件」である。
それがパンデミックの現実だと納得できる人はそれもいいだろう。だが、人類は、WHOという専門の世界機関も持ちながら、あるいは、ウイルス感染ほどの体験ならこれまでに幾度もしてきたはずなのに、この現在の発展は、じつに変である。
帰するところ、人類はいま、「天災」と見まがう、異論をはさむ余地のない「ウイルス犯事件」によって、突如、大きく変質させられてしまう「不連続な変貌」を体験している。だから私はこれを《人為自然両属“事件”》と受け止める。
今のコロナ危機は、そうした極めて異様な状況をもたらしている。しかもこの事件はなお、いかにも人為臭い側面を、しぶとく留めたままである。
《両属》という新把握
そこで、突如、異様に出現したこの新ヘゲモニーに関し、これまでの設問を順当に引き継いで問えば、この《ウイルス犯事件》に「資本の論理」は関わっているのかどうかの是非である。
もし「是」だとすれば、それは、不可視な存在に雲隠れしていた段階なぞをはるかに跳び越え、「疫病」という実におぞましい手法に拠ってまでして、もはや《“神”の代弁者》のごとき地位にまでその傲慢性をバージョンアップしてしまっているかの如きである。
それとも、それが「非」とするならどうなのか。ということは、「資本の論理」はかかわっておらず(他に疑わしきもないとならば)、それこそ純粋な「自然現象」としてそれが起こっているということとなる。もしそうなら、これはこれで、「自然」に対する構えを据え直し、いわゆる「人為・自然」の二分論レベルの「自然」から離れて臨まねばならないこととなる。
そこでだが、日本の状況を見てみると、ことこの《ウイルス犯事件》への対処では、東京五輪に精一杯で「見込み違いをさらけだした」ところに加え、かねてからの「泥船しんぞう丸」は行方すら失い、国民の結束まで食い潰してしまっている。これではどう見ても、そこまで「“神”化した資本の論理」に、便乗する機敏さも気概も期待しえない。それどころか、もはやその“神業”の素早いペースにもついても行けない恐れすら濃く、遂にはふるい落とされるかも知れぬ悲観論すらささやかれかねない状況である。
だが、そうした政治劣化の諸結末にもかかわらず、幸いにも、感染死亡者数は不思議に世界のレベルを大きく下回っている。これは、世界も認めるその高い水準の衛生意識と習慣が物語る、日本国民による、懸命かつせめてもの、生活自衛行動のたまものだろう。
こう一望される世界情勢なのだが、この五月後半の段階では、それを「“神”化した資本の論理」の出現と規定するのはまだ推論上のことで、現実の時代のがその主導にとって代わられたと見るべきなのかどうか、以下、考察を進めたい。
まずはっきりしているのは、このコロナ危機は、その発端から、米中の情報戦の様相をもつ国際謀略事件の性格をもち、いまだにその火はくすぶっている。加えてその流れは、さらにこの感染発生責任や損害補償問題として、中国を告発する欧米日豪などの動きとなって拡大し、貿易摩擦の新たな火種となっている。それがこの先、どのように推移してゆくのかはまだ見通せない。だが悪くすると、世界経済の自爆もどきの大不況へと発展するかも知れない。
ちなみに、ソフトバンクの孫社長は、世界も注目の5月18日の株主総会で、「コロナは1929年の世界恐慌と同じ影響」と語っている。その世界恐慌の際には、NYダウ平均は381ドルから41ドルと10分の1となり、その回復に実に1954年までの25年間を要している。しかも戦争をはさんで。
いずれにせよ、それほどの事態に、もし、各国の妥協による国際的落とし処があるとしても、それは、この危機を「百年に一度の災厄事」とする、またしてもの“毒抜き”された事象への「衣装替え」しかないだろう。だが、その妥協の気配もいまだほど遠い。
だからこそ本稿では、コロナを《人為自然両属事件》との見立てをして、異なる視座に立とうとしている。ともあれ、この考察はまだ途上である。
「確率」という関連性
そのように、現在、世界は混迷の真っ只中で、その行方はまだ見えてこない。
そこでいま、この「天災」と見まがう《ウイルス犯事件》に見落とせない、ウイルス特有の事情について見ておきたい。この見方は、ウイルス研究の知見にもとづき――私のKENFUKA手法も駆使して――考察するものである。
まず、結論から先に述べておくと、ウイルスの感染とは「環境問題」であることだ。つまりそれは、そのウイルスの特性と周囲の環境――つまり人間社会――のもつ特性との“相性”の問題であることで、それが合わなければ、感染は起こらない。したがって、感染の発生の有無は、関係要素の組み合わせ上の《確率――起こりやすさ――の問題》である。
そこでだが、ウイルスが、今回のようなパンデミックを起こすには、むろん、所定の環境に存在する宿主にうまく寄生できる、“適正な”性質を持っていることが条件となる。
ならば、そうした「適正な」性質がどのように得られるのかだが、専門家の知見によれば、ウイルスが新たな性質を持つのは、突然変異による場合に限られる。つまり、ウイルスはある一定の頻度で、ランダムな突然変異を起こしている。したがって、そうした新たに出現した性質はランダムがゆえに“何でもあり”で、いつもそのどれもが環境と有効に噛み合えるわけではなく、多くの無用な新種の出現も生む。つまり、あるものは、特定動物には寄生できてもそれに留まる。またあるものは、人間に寄生できても、毒性が弱くて大流行には至らない(多くのインフルエンザはこれに属すだろう)。
そうした意図やむろん目的も関われないランダム異変したウイルスのうちの、この新型コロナウイルスの場合であるが、それは、今日の社会環境に巧妙に取り付く特性――2週間の潜伏期間とか、呼吸器官への強い毒性とか――を持っていたために、「賢い」ウイルスなどとあだ名され、急速に世界に拡大してパンデミック状態をもたらしている。
つまり、ウイルスと社会環境との間には無数の組み合わせがあるだろうが、感染拡大は、その組み合わせの可能性の高さによって決まる。それが、まれな組み合わせなら、間違いなく、それ相応の狭い範囲の流行で終わったはずであり、実際に近年、世界では地域的な流行で終わったウイルス感染がいくつかあった。しかし同コロナの場合そうはならず、実際に世界に拡大してパンデミックとなり、いまだに終息の気配すら見えないのは、こうした結果をもたらすに足る、そのウイルスと社会環境との組み合わせに高い可能性、つまり強い一般性があったためである。
したがって、それは同様なことが、たまたま偶然にあちこちで起こっていることではない。そういうのを偶然とは呼ばない。そうではなく、この世界的流行が発生することで実証されている、そうした組み合わせの《広範性》があったがゆえである。
「自然の摂理」が“指摘”した脆弱性
以上は、ウイルス側の事情である。では次に、そうした「広範性」ある組み合わせの相手、社会環境の側の特性をクローズアップしておこう。
そこでまず、世界の近年の一連の特徴を上げておくと、世界経済の長引く停滞情況に加え、世界各国の趨勢において、際限のない規制緩和を伴う市場経済一本やり運営のもたらす貧富の格差拡大、また、いわゆる「小さい政府」推進による社会保障や医療制度の予算削減が続いていたこと等が指摘できる。
そうした特徴は、一言でいえば、マネー価値優先主義、あるいは利益最大化志向が、どの社会にも鉄則のごとく蔓延し、“信仰”されていたと要約できよう。
そこでだが、こうした一貫した選択傾斜によって生じた特異だが一様な社会環境は、そこにいったん何らかの社会問題、ことに病原体による感染流行が発生した時、その病害に十分な備えを持たぬ、脆弱性をかかえた社会であったことである。現に実際に、そういう弱点を指摘する見解(たとえばビル・ゲイツ財団)も表されていた。
したがって、もしそうした対疫病上での盲点を突くように、上記のような特性をもつ新型コロナウイルスがたとえ偶然にでも発生したならば、そうした感染《広範性》をもつ世界に着実に拡大するのは、当然に予見できることであった。そして現実に、それが発生したのである。
今、この新型コロナウイルスが「賢い」との風評を得ている理由も、こうした現代社会の「高リスク」を知る――あるいは知りつつも無視を決め込む――人たちが、コロナウイルスの感染力を目の当たりにして言い始めたものだろう。だが、それはウイルスが「賢い」というより、むしろ、人間の側がそれほどに「愚か」か、あるいは「あえて放置していた」かのどちらか――あるいは両方――である。
私はここで、あえて擬人的な表現をしたい。すなわち、こうした人間社会の疫病脆弱性について、その愚行や放置を見るに見かねて、ついにこのパンデミックという自然現象を発生させた自然界の働きこそ、まさに《無色透明無偏向の決定》を示したものである。私は、こうした決定の総体を「自然の摂理」と捉える。それは、人間の意図や欲望により、避けることも無視もきかない、自然界の原理である。
念のために付け加えておくと、たとえば、地球の温度が上がれば、世界の氷が解けて海水面が上昇する、それも「自然の摂理」で、これと同じ「決定」がこのパンデミックである。
すなわち、人類は、そういう「自然の摂理」を忘れ、目先に捕らわれ、あるいは意図して無視して、特定の関心のみに奔走してきたのである。
ところで、先の部分で、この《ウイルス犯事件》に「資本の論理」は関わっているのかとの設問を立てた際、それを「非」とした場合、〈「自然」に対する構えを据え直して臨まねばならないこととなる〉と述べた。その据え直された「構え」とは、この「自然の摂理」の再認識である。
「未必の故意」という「人為」
以上のように、同ウイルスがこの人間社会に感染を発生させるに十分な可能性があったことは明確な事実と認められる。そうであるのならば、人間社会はなぜ、そうした片寄った関心に目を奪われ、その対疫病脆弱性を持つことを許してきてしまったのだろうか。それはたまたまのこと、あるいは、避けられないことであったのだろうか。それとも、それ相応の理由があってのことなのだろうか。
実は、この問いこそ、このウイルス感染の異様さに気付き、これまでにもこのシリーズで幾度も問いかけ、その推論を重ねてきたものだ。そしてその結果、「資本の論理」がその「下手人」であることの《状況証拠》を多々、挙げてきた。しかし、その「犯人捜し」に、「状況証拠」に留まらぬ、もっと決定的な挙証は不可能なのだろうか。
ここで改めて、人為説に立って、違った角度からのアプローチを試みてみたい。それは、現行の法律的概念にそれを探るものである。だがそれは今日まで、なぜか着目されず、それとも、あえて避けられてきた。
そういうアプローチとは、その人間社会の対疫病脆弱性が、《長年の「資本の論理」による「未必の故意」〔注記〕の結果》と指摘できることである。
〔注記〕犯罪的結果の発生自体は確実ではないが、それが発生することを表象しながらも、それが発生するならば発生しても構わないものとして認容している場合の故意。【ウィキペディア】
私はこの観点をもってして、「資本の論理」の一連の意志に、《広義》の「人為性」を見る。すなわち、「資本の論理」に立つ意志の執行とは、その主目的の達成が反面の効果を生み出さないでは達し得ないことを論理的かつ冷徹に計量――例えば、利益の最大化と言う主目的とその結果に起こる富の移動=貧富差の拡大という反面の効果の計量――の上で行われる確信的なものであることだ。
むろん「資本の論理」は、この『《広義》の「人為性」』との指摘を、“こじつけ”と見下しはするだろう。だが、そうした否定があろうがなかろうが、ここで重要なのは、すでに上で確認した感染《広範性》を持つこの人間社会が、5百万人にも達しようとしている感染例と、それによる30万人以上の死亡者を現にかかえているとの歴然たる事実だ。つまり、そうした物証が明瞭に上がっているのである。
そこに「資本の論理」の側からのいかなる反論が出されようと、この物証は揺るがない。そして、そうした動かぬ事実が、「未必の故意」という法概念を通じて、「資本の論理」による結果であると、明確につながるのである。言い換えれば、それほどの規模の感染という巨大健康破壊事件、すなわちそういう《犯罪事件》を「資本の論理」が起こしているということに他ならない。
ここで私は、日本社会が体験した、ある苦い事実を思い起こす。
昔(1960年代)、イタイイタイ病とか水俣病とかの公害病が数多く発生した時代があり、今日までも尾を引いている。その際、被害者たちはそれを、汚染源の企業の起こした公害による被害だと告訴した。それに対し企業側は、たとえ自社の工場が有毒物質を放流していたのは事実としても、その放流物質が自然環境をへて原告の体に入る道筋の――その有毒物質がいつどれだけ放流され、それがどの水草にどれほど付着し、その水草をどの小魚がどのくらい食べ、そしてその小魚をより大きな魚がどう食べて体内蓄積し、そして原告はいつ、どんな魚をどれほど食べていたのか――途切れることのない連鎖を各自個々に科学的に実証できない限り、その責任の経路は成立しないと主張した。つまり、科学の名のもとに、できるだけ「狭義の」因果関係の立証を被害者側に要求した。これに対し、下った判決は、汚染源と汚染物質が人体に疾病を引き起こす疫学的関係(ここでは詳述しないが、ある種の「広義」の因果関係)が実証されれば、個々の連鎖の立証の必要はないとして、企業の責任を認めた。この疫学的関係とは、まさに上記の、「自然の摂理」に立った因果関係である。
コロナ禍を、こうした過去の公害事件と同列に扱うのは、一見、時代も規模も別事のようだ。だが、そうした過去の体験が今回のコロナの体験に、何らのヒントや知恵も与えないとは断言できまい。いずれも、この地球上で生じた事件であり、その根底で「自然の摂理」が働いていることに違いはない。見かけの違いに目を奪われては本質を見誤る。
すなわち、たとえばコロナ“危機”という捉え方は、その大量健康破壊現象の原因をあいまいにしたままのもので、長年にわたって「資本の論理」がなしてきた人間社会への執拗な作為を考慮すれば、それは概念としては、むしろ《汚染》がより適している。従って、コロナ「公害」との名称が適切ですらある。
そしてそれ以上に、実際に法的概念の「未必の故意」という関係が適応でき、その結果の「犯罪性」も認めうるわけである。
にもかかわらず、それが無関係として処理される理不尽は、間違いなく「変である」。
今のコロナ禍は、そうした問題を問うている。単に、歴史上まれにおこる疫病禍ではない。
「金のなる木」を生むマジック
つい数カ月前まで、誰もが平穏に暮らせていた人たちを突如襲っているコロナ禍は、各政府のその対処による禁止や制約による苦難もふくめて、人類に、並々ならぬ疑問を問いかけている。ここで、冒頭で触れた「予断をもくつがえす」予感に再度立ち返り、自分たちの周囲を見直してみる。
目下世界では、一方では、感染拡大を抑える国を挙げた「対コロナ戦争」が繰り広げられ、他方では、コロナ禍からの出口をめぐって、製薬企業や研究組織は、新型コロナウイルスのワクチン開発に血眼になっている。むろんそれに成功すれば、その出口が開かれるだけではなく、同時に、膨大なビジネスが生まれ、それにふさわしい巨利も発生する実効が展開できる。言うまでもなく、本道の「資本の論理」の旺盛な貫徹である。
ここに、究極の「金のなる木」の仕組み、つまり「資本の論理」がもっとも奥底に秘めている錬“金”術が見えてくる。
つまり、ワクチン開発の成功とは、ウイルス感染の終息手段の達成という大義名分の背後で、上述の「未必の故意」の結果の《犯罪行為》を隠し通せるのは序の口で、その商品販売から巨利を生みだせるという、まさに一石二鳥の「金のなる木」であることだ。
すなわち、冒頭で、「じつに変だ」と、人類の新ヘゲモニーを「不連続な変貌」と受け止めたことの意味とは、この《犯罪行為》の隠蔽と巨利という一石二鳥の「金のなる木」が、ワクチンの商品化を通じた「コロナ後の世界」への移行で、あたかも「新時代の到来」のごとく、過去の「資本の論理」の犯罪性までをもすべてを帳消しにした上に、多くの面倒な部分を切り捨てて世界をリセットする、新時代が幕開けすることだ。
言うまでもなく、この「幕開け」の重大な反面は、「金のなる木」や「帳消し」が、世界中の人々を追い込み、何十万という命まで奪っている大災禍を踏み台にしてなされていることだ。
そういう自分の罪さえ金に換え、晴れて免罪まで得てしまえる途轍もないヘゲモニー変換つまり錬金術が、いま、このパンデミックを契機に執行されようとしている。