マイナーだがビッグな著作の図書館

先にもお知らせしましたように、このHPに「両生図書館」を設置しました(左側のメニュー欄)。というのは、この「両生歩き」のサイトには、これまで幾冊かの訳読書や執筆書を扱ってきましたが、それらがバラバラに掲載されており、それがどこにあるのか、見つけにくい不便がありました。そこで、そうした本をまとめて掲載し、そのアプローチが簡単にできる「両生図書館」を設けました。

また、既報のように、このサイトへの訪問者がコンスタントに増加しており、今年に入って、一日当たり900人を超え、1000人の大台に乗るのもそう遠くないとの見通しも可能となっています。そして、その増加の要因を調べているのですが、厳密な統計は取り切れていませんが、ざっと見た感触では、従来のような様々なページへの新規の訪問者に加えて、特定のページに繰り返し訪問されている、いわば「リピーター」が増えている様子がうかがえます。

 

たとえば『天皇の陰謀』をみますと、以前は、その目次に当サイト全訪問者のおよそ2パーセント強がヒットし、おそらくその内容の膨大さにたまげてしまうのでしょう、それだけで引きあげてしまう、「ちょっと見さん」が大きな部分を占めていました。それが最近では、その目次への訪問者の割合は1パーセント半ばほどに減り、その一方、本文はもとより、参考文献や各脚注までものヒットが着実に増えています。

これを本屋の店頭にたとえますと、気になる本を手に取り、さっとその内容を見てはみるものの、それを購入するまでにはなっていなかったのがこれまででした。それが最近では、それを買って持ち帰り、じっくりと読むお客さんが増えている、そんな感じの変化が見受けられます。つまり、確かな固定客層が存在し始めているようなのです。

 

これは発行者としての私がしだいに確信を深めてきたことですが、ネットを通じたフリー出版には、売る目的の出版業には果たせない役割を担いうるというひそかな期待がありました。つまり、どうしても「売れ筋」に傾かざるをえない出版ビジネスにあって、そこでふるい落とされてしまう著作も、ネットを通じたフリー出版なら出版可能で(今のところ)、一般社会の目に触れる可能性が生まれうるわけです。あるいは、どんな社会でも、自身がもつ偏見や支配が、それを指摘したりあばく見解の出版を嫌い、自ら閉塞の道へと迷い込みがちです。

ところが、この『天皇の陰謀』のような“問題書”も、このネットを通じたフリー出版によって、少なくない関心を掘り起こし、しっかりとした読者を得ているようなのです。

つまり、必ずしも「問題書」に限らず、早すぎる先見性とか理解の難しさとかあるいは観点が特殊すぎるとかで、一般的には扱われにくい文献にも、こうして、従来の予想を裏切る読者層を獲得できる実証がされつつあると踏んでいます。

本に関し、それが「売れるかどうか」しか尺度とされない社会はあまりにさみしく先がありません。それは、人に関しても言えることです。

そうした「マイナーな著作」の閲覧場所としてこの「両生図書館」を位置付け、ことに、当サイトが手掛けた文献をここに掲載してゆきます。

言うなれば、商品本位の社会には、それがゆえの限界が伴います。そこに、商品としてではない流通の可能性と必要が潜んでいると言えましょう。

マイナーながら、そしてマイナーだからこそ、ビッグな可能性を秘めうる文献の図書館にしたいものです。

 

なお、私が書いた拙作品については、ひとつの著作としてまとまったものについては、この「図書館」に含めるつもりです。しかし、日々に書き散らした断片的な創作品については、この図書館の蔵書に含めるまでには至っていないものとして(少なくとも、一つの作品としてまとめられるまでは)、掲載された各ページにそのまま残しておきます。

 

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