世界はいまや、それぞれの国の一握りの政治家たちの自負心とその誇りがゆえに、ブラフされた混乱と、小規模だろうが大規模だろうが、ほんとうに火を噴く戦争さえ辞さないとした、錯乱の事態へと迷い込もうとしている。そしてすでにその兆しは、実際の戦禍の痛々しい事態にさえ至っている。
片やでは、国を二分して対立をあおり、しかも国民の半数以下からその代表権を委ねられただけでしかないのに、国の権力を総どりし、その代表者の信念のもとに、いかにもそれが全国民の意志であるかのように動かしている。
他方では、歴史の成行きから出来上がった、選挙という手段ではなく政治的観念にのみ基づく代表権を存在理由に、指導者としても単独の、独裁政治を君臨しはじめている。
そのどちらにも共通しているのは、全国民の実際の過半数の意志の確認を避けている、どっちもどっちの「民主」の体を成さない政治である。
そうというのは、片やは、自由投票制という事実上、半数以下でも代表が選ばれる制度によって、他は、その自由投票すら実施せずに代表が決まるという、いずれも、実際の過半数の国民の意志の確認をしていない手続きに基づいている。
そして、そうした少数にしか基づかない権力によって、いまや世界中の人々の運命が左右されようとしている。
実に忌々しき事態である。
したがって、そんな権力のために、もし、自分の生死がさらされるとするなら、黙ってそれに従ってゆけるはずはなかろう。それともすでに、もっとも最近の投票の際に、そんな現状認識と覚悟をもって、一票を投じたのだろうか。
そこでこれは、世界をこうした戦争の危機へとさらさせない実務論としての見解なのだが、世界の先進諸国の中で唯一、選挙を自由投票でなく義務投票により、その事実としての少数代表を許さぬ制度を持っている国がある。それがオーストラリアである。
オーストラリアでは、義務投票制度がゆえに、常に、国の代表は、その実際の半数以上――つまり過半数――の国民の意志によって決定される。
つまり、選挙では国民の9割以上の人たちが実際に一票を投じ、その9割以上の人たちの過半数によって自分たちの代表が選ばれる。それが俗に言う“浮動”する投票を含むとしても、その結果は、実務上の全国民の考えを反映したものであることが重要である。安くない税金を納めているその誰もが、それだけの言い分を持っていないはずはない。納税も義務なら投票も義務とする、その両脇を固めた制度こそ、「民主」の名をかたれるものである。
そうした国では、誇大な国家の使命を説く指導者が登場したとしても、それはどこか白々しくしか受け止められない。支持されたとしても一部を越えられず、実際の過半数には達しえない。これが「民主主義」という真の「ポピュリズム」の姿である。
まして、どこかの国を相手に戦争を起こそうなどと唱えても、そもそも、移民の国であるオーストラリアでは、その想定敵国からの移民者がすでに実際に国民となって社会の構成員となって定着している。そうした隣人同士が敵味方に分かれる事態が想定されるくらいなら、その戦争を唱える話の怪しさの方が際立ってくる。
つまり、事実上全国民が実際に投票し、投票できる制度を維持しているということは、いまや、それほどに貴重かつ有効な事例と言ってもよい。その義務投票制度が導入されたのは1924年のことで、すでに100年の磨きがかかっている。
平たく言えば、自由投票制は国を二分する非現実的結果に向かいやすく、義務投票制は誰にとってもの日々の現実に基づく結果になりやすい。