アメリカで「トラッドワイフ」という新語があるという。トラディショナル・ワイフの略で、ここのところ、アメリカ社会に生じているひとつの流れらしい。これを日本語にすれば「専業主婦回帰」とでもなりそうで、それを報じる日経の見出しも、「仕事と家事両立に疲れ伝統回帰」となっている。
そういうことなら、「専業主“夫”」の私の場合は「トラッドハズ」か、との思いが頭をよぎった。
そこでなのだが、むろん両者は、同じように「家事専念」方向ではある。だが、私の場合その男版で、しかも、日本がらみという、そうはアメリカの状況と同列には並べられない事情という“味噌”がある。
つまり、こうした二つの「トラッド」つまり「伝統回帰」は、それをその表面上の姿で、ことに伝統か革新かと二分して見るからそうなのであり、その「伝統」風と映る動向は、実は、伝統とはむしろ真反対の深層すらもっているのではないか。
もちろん私は、アメリカ情勢にはうとく、この「トラッドワイフ」にまつわる理解も、メディア報道によるこの一見した類似性以上の根拠をもつものではない。
そこでこの「味噌」の味だが、私の場合、その「トラッド」な見かけは、私という独自例の成り行きの結果で、「伝統」とか「革新」とかとの社会思潮の二分法を意識したものとは言えない。むしろ、自分風なのかどうかといった、実に狭く意固地な選択の結果と言った方が正確だと思う。
したがって、ここに扱う「トラッド」をめぐる類似面は、「伝統」や「革新」といった違いに意味があるとするより、また仮にあったとしても、多様な動向のあるなかでの、そうした切り口を取っている結果にすぎないのではないかと見る。
つまり、それは「十人十色」どころか「億人億色」とでも言える多様性の一角を、そうした観点をもってひとからげにして切り取っている視角ではないか。
なぜこんなことを言うのか、それはこの自認「専業主“夫”」とは、私の個人的かつローカルな、それでもけっこう入り組んだ要素をミックスして判断してきた結果であって、いうなれば、その「伝統」うんぬんな類似性とは、さほどの因果性も重要性の一致もないものだ。
そこに、ことさらに類似な要素を見出したいとするのなら、「億人億色」とでも譬えられる、多様性の厖大な広がりにこそ、それがあるのではないか。
以上、新聞見出しを見て、とっさに頭をかすめた反応についての起承転結である。