「人のふんどしで相撲をとる」という諺がある。
いま、中央アジアの旅を始めて、はや十数日となっているのだが、私は、この旅とは正直言って、まさに、この諺の通りだなと思っている。
というのは、私のこの年齢にして、このようなスタイルの旅をするのは、極めて異例だろうと思うからであり、しかも、自分独自ではちょっと実行しきれない、特異なスキルや能力も必要とするからだ。つまり、そういうスキルや能力という面で、このようなスタイルの旅を本望とする人の旅に便乗して、相乗りの旅を続けているからだ。
そのスタイルとは、よく言う「バッパ旅行」、つまり、「バックパッカー旅行」と言われる、若者たちが最低の費用で行う旅のスタイルに近い。そして、この旅行方式の醍醐味は、その経済性にとどまらず、一般にはまだ開けていない目的地へも、ある程度のリスクをおかしてでも、果敢に出かけてゆくことにある。
さてそこでだが、では、なぜそんな何とも趣向の違う旅をしているのかということがあるだろう。それにそもそも、いい年をして、そんな場違いな世界に、何ゆえに飛び込んで行かねばならないのか、それも異例なことだろうとも思う。
さて、このあたりの種明かしについては、きわめて私的な事情がある。
つまり、私のパートナーが、彼女の歳にしてはこれまた異例なほどに熱心かつ年季の入った、すでにこの種の旅を続けて数十年におよぶ言わばベテランであり、これまでに踏破した国も百数十か国を数えている。そうした彼女自身のミッションにおいて、この中央アジアは、まだ未踏破の地帯であって、その未完成部分は是非とも、やっつけておかねばならない課題であった。
いうなれば、そういう彼女のミッションに付き合って、女の一人旅の不便を和らげる役も請け負いつつ、この旅に参加しているのが私であるということになる。つまりは、「夫唱婦随」ならぬ、語呂は無視するが、「パートナー唱私随」なのである。
話は転ずるが、人間、一人でなせることには限りがある。あるいは、齢を加えてここに至れば、手は出したいものの、誰かの助太刀なしではとうてい達せない域というものがある。
この4月の日本帰国の際、奥秩父の残雪中の山行も、とてもじゃないが自分一人ではなしえないその試みが、若い山岳ガイドの手助けで実現できた。これまたその“ひとふん相撲”の別の事例である。
このお呼びでない〈シニアバッパ旅行〉も、あえて分類すれば、そうした他者の手を借りなくてはなせない行動のひとつでなのである。
ここで話はさらに飛躍するのだが、私は、この“ひとふん相撲”とは、先に兄弟サイト『フィラース』で述べた「並行宇宙」論の、ごく身近な実現法ではないかと考えている。
むろんこんな話は、本道の量子物理学においては「噴飯もの」なのだが、それはそれとして、いずれにしても人間、自分一人では限りがあるがゆえに、こんな誰かとのコラボレーションを組み立ててみるのも、量子理論で言う、「重ね合わせ」と「からみ合い」の生身な人間サイズの実現方法なのではないかと思う。
つまり、考えよう次第では、量子の特異な性質の根源である双対的な要素とは、人と人との間の、老若なり、男女なり、友人なり、そうした一対関係の相互のつながり合いという次元において、きわめて類似していると考えても、さほどピント外れではないのではないかと思っている。
言い換えれば、それを従来の要素還元論に影響されて、あたかも、個々独立して存在しているものと考えること自体に、不自然なところがあるのではないのだろうか。
ただし、厳正な事実として、こうした“ひとふん相撲”なチャレンジも、健康に行動できなくては絵に描いた餅で、それなくしてはほとんど看護や介護の域になってしまう。その意味で、量子理論を生の人生に応用するにあたっては、そうした基本能力を保持しているとの、これは厳密に“ひとふん相撲”以前の、人としての根源条件を不可欠とする。
ここに、自分の健康という、お金で代用することがあたかもありえるかに語られている現代の最大のまやかしに惑わされてはならない、自身の真の財産問題がある。