面白味を欠くAI

《「人生二周目」独想記》第38号

AIをいろいろと試してきている。たしかに、プロンプト(質問)の仕方次第で、答え方のタイプは異なるのだが、どれもおしなべて、ひと口で言うと「面白味を欠く」という印象をもつ。AIが実際の人間ではなく、数理的な過程を重ねた純数学的なものであるとの原理からすれば、当然すぎる印象ではある。つまり、超博識ではあるが、自分独自の発想といったものはそこにない。むろんあるはずもないのだが、問われた対象はぼう大な分量の材料であるはずなのに、あまりに瞬時な返答振りに接すると、「こいつ、本当に全部を読んでいるのか」とのいぶかしさすら抱く。現に、ある種のマイナーながら独特な部分などについては、何らの関心も示していない。要するに、徹底して統計的で平板に、“常識的”なのである。

前にも書いたが、このAIがスマホを通じた手軽な手段として定着すれば、おそらく、「AIが言っているのだから」と言った、一種の正確さと網羅さへの定評がもたらす、巨大なその「常識」作りには貢献するだろう。だからそこに誤りやウソがまじっているとすると、その影響は途方もない。

むしろ、AI時代におけるその対処法とでもいった見地で言えば、上記の「面白味を欠く」超常識的見解に対する、個人的過ぎるとしても人間臭い一種のバイアスめいた観点が、その超常識に対する防護壁になりそうである。

つまり、AI趨勢になればなるほど、そのAI世界はそういうものとして機能し、それに平行する別の世界として、それこそ私的視点に彩られた、多様性の世界が花咲いてくるのだろうと想像される。

つまり、AIの出番の場と、人間の出番との場は、明瞭に区別されてきて、二つの世界からなる、二重の構造が、世界の常識となってゆくのではないか。あるいは、なって欲しい。そしてこのAI出番の世界とは、この世界の物的生産の分野が主となり、それだからこその生産性の飛躍的な向上が現実になってくるだろうと期待したい。

したがって、そうした物的生産の基盤の上に、人間によってしかなされない、ヒューマンな世界が展開され、それこそその多様性は、手間ひまかかる人間による味わいの世界となってもらいたい。そしてそれは今にすでにある、伝統的工芸の持つ味わいの世界を例とするような、いわば職人芸やアートの世界の百花繚乱である。

ただし、この人間主体の分野にもAIが侵略してくるのは間違いなく、それこそ、ニセモノの作品が人々をだますのだろうが、そこでまた、その真贋を見分ける、人間の側の感覚の磨きが問われることとなるのだろう。

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