ミカン産地でのほぼひと月間の労働に一区切りが付き、一週間の正月休みに入った機会を利用して、今、長年考えてきた訪問先、故-大江健三郎の郷里、内子町に来ている。
こうした、これまでの四国、愛媛県における新体験をややSF風に表現すると、表題のように、「40年のタイムスリップ」ともしうる感慨がある。
そしてこの「タイムスリップ」だが、それはSF風どころか、日本を離れオーストラリアで40年にわたって過ごした自分と、その間、あたかも昔のままで居続けているような、今回の訪問で改めて接しえた日本の社会の在り様とが、まるで同期したかのごとき、リアルな融合感である。

昔、わが家でもこうした新年の飾りつけをしたことを思い出させてくれた、内子の街並み保存地区でのひとシーン。
いうまでもなく、日本社会が変化を遂げているのは明白なのだが、私にとっての今回の体験という眼鏡を通して視ると、40年間あるいはそれ以上の時間的、地理的ギャップで隔てられていたはずのものが、ここに思いがけずに、ありありと同在しえたという意味で、まさしく「タイムスリップ」体験そのものなのである。
そしてこのタイムスリップの体験には、二つの要素が関わっている。すなわち、片や、農業生産という自然の実りに根差すものと、また、内子町に人為的にも保存されている伝統様式が思い出させてくれたものという〈訪問先側の要素〉と、他方、この40年間やそれ以上の間に変化してきた〈自分側の要素〉という、二つの要素である。そうした、「私」vs「自然・伝統」という二要素との間に、「大きく変わった」自分の側と「何も変わらなく」存在してきた環境側のそれという、二つの別々ものがかくして遭遇し会って作り出す、それこそ、時間の経過や地理的違いがあたかもゼロになるような、タイムスリップな意味や価値観の出現なのである。
それに加えてこの気付きは、前回述べた「未然の必然」の概念のさらに拡大したバージョンとして、その認識にいっそう現実性と色彩を添えるものでもある。
そこで、その「保存」との人為的所作は脇に置いて、その根源である農業社会や古い生活様式をつかさどるものには、自然がもたらす豊かさや壊れやすさという視点を念頭において、それを過ぎ去って無用となった遺物とするのではなく、失われていた尊いものと見る復活的な観点から、そこには、一つの未来性を感じさせる〈反転〉すらある。
それは、今回の農業従事体験を実現させた「旅ワーク」といった「出会いサイト」の変型版が物語るように、すでに多くの仕組みや機会が用意され、それを通じてことに若い世代の、都会から地方への移住体験を生んでいるという新たな社会動向にも、その未来性はもう垣間見られ始めている。
そうした動きに加えて、私が今回の体験で見出しているものは、私の長年の運動習慣がもたらしてきた確かな実感をともなう健康創生要素としての、体を使うことを毎日に組み入れた生活が、運動のための運動でも一種の流行りのような志向でもなく、人が健康に存在するための運動という切実な必要やその効果において、農業従事のもつ将来性があるに違いないという発想が生まれる。
そしてさらに、上記の「タイムスリップ」と表現しうる体験が示唆していることは、そのように消えそうでいて決して消えていない、私たちの生きることにまつわる自然に内在する世界との接触において、農業には、上記の健康創生要素に加えて、哲学的あるいは思索的な深みも含んでいると言う観点をもって、《哲学的農業》、あるいは、《Philo-agriculture》——略して「フィロアグリ」などと愛称できるかも知れない——と名付けて、肉体と頭脳とが結合する新たな様式とその場がありうるのではないかと構想される。
そしてこれを発見と呼ぶならば、いまや人間世界を席巻しつつあるAI革命の「片手落ち」を、よりホーリスティックな革命と生まれ変わらせる、「もう一つの手」を提供する選択の発見と言えるだろう。