サイクルの変わり目

さあ「百花繚乱」しよう

《「人生二周目」独想記》第10号

このシリーズにある『人生二周目』という標記には、到来した「サイクルの変わり目」を股にかけるといった意味合いがあって、その変調といったものを、到来自体はやむを得ないとしても、ならばそれを活用したいとの意図があります。

そうした意図から言うと、今日の時代に暮らしていて、しだいに現実味を深めてきている、二つの視点があります。

そのいずれも、日本にとっては極めて深刻な課題であるはずなのですが、なかなか着手の困難な問題となっているものです。

その一つは、人々の生き方という見地からのもので、他は、すでにその問題は現実に顕在化していて、喫緊の課題ともなっているものです。

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前回に続き、「言葉って重たい」をテーマとするのですが、今回はその背景が大きく違っています。むろん、言葉に関する点に変わりはありませんが、〈半分外人-日本人〉といった地理由来の観点ではなく、むしろ、ジェンダー由来の問題です。そこでそれを、本シリーズのタイトルにからめて言えば、〈半分-日本人〉とでも言い換えることができましょうか。 詳細記事

下記グラフのように、凄い変化が起こりつつあります。今年1月を谷底に、このわずか二か月間で、どの部門も、2倍、3倍の伸びです。そして、これだけの大きな全面的変化がこんな短期間に生じるとは、いわゆる自然増で起こったものとは考えられません。その要因は、この規模やタイミングから判断して、昨年末以来のAIの急速な普及しか考えられません。それにより、当『両生歩き』のようなマイナーなサイトでも、より広い読者による発見と閲覧が可能になってきているということのようなのです。いうなれば、〈AI読者〉の出現です。

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根気よく飽きもせずにサイトを発行し続けていると、ひょっとすると雑誌を発行することも、似たような作業なのかも知れないと、ふと頭をかすめることがあります。

もう二十年以上も昔、本サイトのオリジナル版を発行しはじめた当時、稚拙ながらビジネスがらみの目的があったため、その作業は、あたかもその会社の案内パンフレット――いかにもあか抜けしないチラシ風――をオンラインで配布しているかの感触でした。

そのビジネスが、今もドメイン名に残る「リタイアメント・オーストラリア」だったのですが、その起業もあえなくついえて、むしろその副産物として生き残ったのが、サイト発行という作業でした。

 

20年前のそのオリジナル版掲載の一記事(2003年12月1日付

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ゴッホが再びやってきた

40年振りの再会

《「人生二周目」独想記》第8号

本サイト『両生歩き』中のサブサイト「両生空間」、そのホームページ左、主テーマ欄の下に、ゴッホの作品のひとつ「星月夜」が、厚かましくも、同タイトル表示のための背景として掲げられていることに注目いただきたい。

この絵がどうしてそこに掲げられているのか、それには私なりの理由があります。というのは、私が40年前、38歳で留学生としてオーストラリアの地を踏んだ、人生半ばでのキャリアのリセットの日々にあって、その不安を癒し、勇気付けてくれたのが、一連のゴッホ体験――そのアイコンをクリックした先の記事にその詳述がのべられています――であるからです。いわばその初心を忘れまいとするそのアイコンです。

そのゴッホが、「星月夜」が描かれてからは135年後、また、私のこのゴッホ体験から40年後の今、先の「MaHa」の誕生とほとんど同時のタイミングで、ふたたび、私のもとに出現してきました。

というのは、「MaHa」の誕生と同月のこの2月、『ゴッホが見た星月夜』(日経ナショナルジオグラフィック)とのタイトルの本が出版されたからです。その帯には「天文学者が解き明かす名画に残された謎」とあります。

この画像は、同書内に掲示されている「星月夜」を写真に撮ったもので、色彩はより原画に近いはずです。夜空を描いたものでありながら、その色調は実にカラフルで、改めて驚かされます。

なにやら、このタイミングといい、私が自サイトに掲げる「星月夜」のアイコンといい、この本の出版は何やら因縁めいて感じられ、さっそく注文して取り寄せ、40年後の改めてのゴッホ体験となったのでした。 詳細記事

2024年3月19日、オーストラリア連邦準備銀行は、定期理事会を開き、現行政策金利を、現行の4.35パーセントのままに据え置くことを決定しました。

なお、同理事会は、昨年までは一月を除く年11回の月例(第一火曜日)で開かれていましたが、今年から、年8回に改められました。従って次回は、5月7日です。

何と表現すればよいのだろう、ともかく、不思議な〈再生感〉が立ちのぼってきています。

それを、生まれ変わったなぞと言ってしまえば、もちろんもちろん、誇大妄想なのですが、こちらは、自分の何かがどこか「再生」し始めているかのような、「メタ」そのものの効用なのです。

これは、先に『フィラース』に書いたように、「MaHa」を誕生させて以来のことです。

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2月の一日平均訪問者数(グラフ中の赤線)は 1,574人と、1月の1,248人から326人跳ね上がり、これまでの最高であった2020年5月の1,450人を124人も上回る、歴代最高値となりました。

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やっぱり「言葉って重たい」

〈半分外人-日本人〉(その3)

今回は、〈半分外人-日本人〉のテーマの中で、やっぱり「言葉って重たい」という、至極当たり前な話題を、あらためて取り上げます。

と言うのも、前回、私は英語が苦手である「変な〈半分外人〉」だと書きました。そんな私ですので、この「言葉って重たい」との実感は、身に染みている体験の告白でもあります。そして、そこをさらに断言してしまえば、外国暮らしをするその機会をどう成果付けるか、それを生かすも殺すもその行方は、その人の言語能力次第であるとも言えるからです。 詳細記事

今月は、オーストラリア連邦準備銀行による政策金利発表は、19日に変更となっています。

変な「半分外人」

〈半分外人-日本人〉(その1)

今77歳の私がここオーストラリアに渡ったてきたのは1984年、38歳の時で、昨年はそのオーストラリア在住の長さが、私の人生のちょうど半分に達した年でした。

そうした意味では、私はまさに「半分外人」なのですが、そうでありながら、今だ日本国籍をしっかり持ちつづけているという意味では、「半分外人-日本人」でもあります。

また昔、S30年代末の昭和の真只中、「変な外人」という流行語がありました。たしか、タレントとして活躍しはじめていた日本在の「ハーフ」の外人たちがそう自称したことが受けていたのですが、私のこの「半分外人」ながらまだしつこく「日本人」であるということは、「ハーフ」か「ダブル」かはともあれ、そんな“変な”「半分外人」でもあるようです。

そこで今回を皮切りに、ここに〈半分外人-日本人〉とのコーナーを設け、その“変な”「半分外人-日本人」ぶりをさらけ出してゆこうと思います。

私の人生終盤に向けての、アウトプットであります。

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〈半分外人-豪州人〉という鏡像

〈半分外人-日本人〉(その2)

(その1)に続けて(その2)も掲載します。

先に、『日本人という呪縛』との題名の昨年末出版の邦訳本(原題は The curse of Japaneseness)を読みました。日本在住も長いデニス・ウェストフィールド(Dennis Westfield)と言う豪州人ジャーナリストが原著者です。

まず、ひと言でその読後感を述べれば、本書は、私が自称する「半分外人-日本人」の鏡像とも言うべき、「半分外人-豪州人」による日本人見解です。 詳細記事

「災難」と「双対性」

統合への潜在性の谷間で

《「人生二周目」独想記》第6号

自分の前立腺ガンを「災難」と捉え、「ガン付き健康」と腹を据えた積りとしても、この降ってわいた遭遇物は、なんとも扱い難い代物との本性を表してきています。

というのは、別記のように、直近の血液検査のPSA値は8.21に上がって、これまでの最高値となっています。要注意の度は、このようにずり上がってきています。

そこでですが、私の場合、病苦とは言っても、まだほとんど心理的なものにすぎないのですが、こうした巡り合わせには、正直言って、何でなんだと愚痴を吐きたくもなります。 詳細記事

2024年2月6日、オーストラリア連邦準備銀行は今年最初の月例理事会を開き、現行政策金利を、現行の4.35パーセントのままに据え置くことを決定しました。

1月の一日平均訪問者数(グラフ中の赤線)は 1,248人と、12月の1,246人から2人の微増となりました。しかし、各部門のほとんどで緩和はしているものの、12月に続く下落となっています。

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この《独想記》は、既述のように、前立腺ガンという――遅行性ながら――致命的「災難」との遭遇に始まる一種の闘病記との役割は持っています。しかし、それに終わらせず、それを契機に、自身のこれまでの思想的取り組みである〈非科学-科学〉構想とを結び付けた、言うなれば、「自分実験」のまたとない機会であり、それを是非とも生かしたいとするものです。 詳細記事

次の十年紀へ

見誤れぬ、足下の一歩一歩

《「人生二周目」独想記》第4号

今年の8月で、私は78歳となります。

そしてこの2024年は、これまで、おおむね10年毎に新たにしてきた私の人生サイクルをめぐり、新たな節目の年になりそうです。

というのは、まず、ひとつのサイクルの終点として、既述のように、前立腺ガンという「災難」に遭遇し、対応に追われた10年間をへて、とにもかくにも、「ガン付き健康」といった腹構えを持つことで、ひと区切りを付けれたことです。

そして起点として、この「独想記」を一種の装備とし、「山頂なき登山」であれ「海図なき航海」であれ、「究極のゴール」を目指して、むろん結末の成否はさだかでない、冒険めいた試みが始まることです。

そのような展望を託して、これからの10年を、体験してきた諸サイクルを下地に、次の十年紀にしたいとするものです。

パキスタン、フンザ渓谷。右はラカポシ峰(7788m)〔2019年筆者撮影〕

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「究極のゴール」、私の場合

《「人生二周目」独想記》第3号

「新年おめでとうございます」――とは述べても、めでたさなぞ吹っ飛ばされる新年となっています。

そんな歳月の起伏にあって、このところ私は、自分をいわゆる「老人」として意識したり自称することが、しだいに多くなっている自分を感じています。

以前は、年齢が七十代も後半になってきているのに、どこかそう自認することに抵抗感をもっていました。あるいはむしろ、人並み以上の健康水準の維持がゆえ、そういう抵抗も当然とするところがありました。

そこに、この独想記のように、十年前のガン宣告に加えての昨年のその進行状況は、そうしたフル健康状態に手痛い傷を付けてくれ、そしてもちろん、そうした自意識に強いブローをもたらしてくれました。

ただ、そうなのではありますが、それらの宣告も検査結果を根拠としたもので、自覚症状は伴っていません。そこで、早期発見は早期発見としつつも、そうしたガンへの対処については、ともあれ「全摘」は辞退し、その「ドラ息子」との共存をより尊重してきているところです。

そのように、私にとってガン問題は、あえて申せば、降ってわいた「災難」にも等しいもので、対処は必要としても、少なくとも主観的には、必ずしも自分の「老い」をさらす、決定的事態を意味するものとは考えられないできています。

ここに、その「災難」と、築いてきた「自視野」とが交錯する、大きな高度差を眼前にし、方向を見誤るべきでない「究極のゴール」とは何かと問う、あらたな登山意識――「山頂なき登山」――が私の脳裏を占めつつあります。

そしてそこに、その用具とも、あるいは、そのコンパスともなるかのように、その意識の創発の場を提供してくれているのがこの独想記で、本稿のように、それに託す働きがなんとか役立ち始めてくれています。

ネパール、アンナプルナの峰々〔注記〕

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12月の一日平均訪問者数(グラフ中の赤線)は 1,246人と、11月の1,262人から16人減少し、10月からの11人に続く微減となりました。また、各部門のほとんどで、11月の顕著な伸びを相殺するような大きな減少となっています。

 

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