「究極のゴール」、私の場合

《「人生二周目」独想記》第3号

「新年おめでとうございます」――とは述べても、めでたさなぞ吹っ飛ばされる新年となっています。

そんな歳月の起伏にあって、このところ私は、自分をいわゆる「老人」として意識したり自称することが、しだいに多くなっている自分を感じています。

以前は、年齢が七十代も後半になってきているのに、どこかそう自認することに抵抗感をもっていました。あるいはむしろ、人並み以上の健康水準の維持がゆえ、そういう抵抗も当然とするところがありました。

そこに、この独想記のように、十年前のガン宣告に加えての昨年のその進行状況は、そうしたフル健康状態に手痛い傷を付けてくれ、そしてもちろん、そうした自意識に強いブローをもたらしてくれました。

ただ、そうなのではありますが、それらの宣告も検査結果を根拠としたもので、自覚症状は伴っていません。そこで、早期発見は早期発見としつつも、そうしたガンへの対処については、ともあれ「全摘」は辞退し、その「ドラ息子」との共存をより尊重してきているところです。

そのように、私にとってガン問題は、あえて申せば、降ってわいた「災難」にも等しいもので、対処は必要としても、少なくとも主観的には、必ずしも自分の「老い」をさらす、決定的事態を意味するものとは考えられないできています。

ここに、その「災難」と、築いてきた「自視野」とが交錯する、大きな高度差を眼前にし、方向を見誤るべきでない「究極のゴール」とは何かと問う、あらたな登山意識――「山頂なき登山」――が私の脳裏を占めつつあります。

そしてそこに、その用具とも、あるいは、そのコンパスともなるかのように、その意識の創発の場を提供してくれているのがこの独想記で、本稿のように、それに託す働きがなんとか役立ち始めてくれています。

ネパール、アンナプルナの峰々〔注記〕

 

そこで、その「山頂なき登山」とはいかなるものかですが、まず、それを方向付ける所与条件として、上に触れたような二点があります。

つまり、その第一は、ともあれその「災難」であるガンとの取り組みです。これは降ってわいたものとは言え、何とかしなければならない目下の課題です。そしてその第二は、時の経過とともに、自分の身体“性能”の変容をふくむ、体験の蓄積が提供してきている視界です。

そこでなのですが、今、こうして迎えている2024年の年初に、かく遭遇している私にとっての二つの課題は、ふり返ってみると、実は、別のアプローチから、すでに取り組みを始めていたと言ってよい、私なりの経緯があります。

それは、年末を控えた12月15日、兄弟サイト『フィラース』に、「結局、『科学』って、何?」とのタイトルで「生命情報」第6章を掲載し、その「究極のゴールへ」(そこでは「究極のターゲット」との表現をしている)について構想していることです。

ここではその構想の内容自体には触れませんが、かくして、その「究極のゴールへ」をめぐって、昨年末からこの年初、私においてのその二つの課題が、一つのビジョンへと《収れん》する初動が始まっていたことに、改めて気付かされています。

 

そこでこの《収れん》なのですが、それをひと言で述べると、一方に、「ガン付き健康」という私の身体的リアリティーがあり、他方に、「非科学な科学」という私の長年の思考上の到達点があって、それらがこの時期において、同時出現していることです。

またこれを換言すれば、私自身をめぐる、具象的なそれと、抽象的なそれという、二つの切り口――登山でいえば、山頂へと向かう二つの異なった登山道――の存在とも言えることです。

つまりこの《収れん》は、私の生な身体を舞台として起こっているガンをめぐって、一方では、その「待ったなし」の現実的必要に対し、そのオルターナティブな対処法としての「非科学な科学」つまり東洋医学を取り上げ、他方では、従来の科学(むろん医学との意味も含め)の持つ限界の現れとしてそれを理論的に捉えるという、二方法の取り組み上の思索を結び付ける、そのような《収れん》現象を意味していることです。

それに加えて、これは今の時点では希望的観測ですが、この現実と思索との《収れん》現象として、もし、東洋的なオルターナティブな取り組みが私のガン問題の対処に寄与できたとすれば――むろん失敗に帰する場合もある――、それは「非科学な科学」との構想が果たした、とにもかくにも、一つの成功例としてそれを挙げうるものとなるでしょう。

これはまさしく、すでに兄弟サイトである『フィラース』において繰り返し論じてきている「自分実験」、すなわち、こうした私をめぐるガンをめぐっての取り組みが、そうした「非科学な科学」といった新認識の論証の一手法として(むろん不成功も含め)、実は、そこに言う《自人生を通じた実験》の一例となって、それに寄与しているということでもあります。

もし私のこの個人的な実験がそう科学的に寄与できるとするのなら、これは実に奇遇な成果でもある一方、まさに従来の科学を越えた科学的な一実証プロセスでもあると言うことができます。そういう意味で、実に「非科学な科学」の成果と言えます。

 

かくして私の場合、「究極のゴール」とは、その総論では、「非科学な科学」への「山頂なき登山」とし、その各論では、「ガン付き健康」への「海図なき航海」とする、抽象と具象の二面にわたる《収れん》課題として与えられているということとなります。そしてそれはまさしく、物象的ならぬ、「知象的冒険」と見てよいものであるでしょう。

 

幕を開けた2024年は、波乱の年になるとの報道です。

そのような情勢の中で行われる私の「登山」や「航海」という課題を、どうやら“神”は、そうした《双対的》な枠組みをもって、与えてくださっているかのようです。

 

かくしてともあれ、私の「究極のゴール」は、その創発と展開の場を、総論は『フィラース』において、各論は『両生歩き』においてそれぞれ実行され、《収れん》されてゆくものと展望されます。

 

〔注記〕この写真の出所

 


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