78歳となった

大いなる「見込み違い」

《「人生二周目」独想記》第17号

20日で、78歳となった。

このいまの瞬間で、なによりもの感慨は、健康で、充実して、この年齢を迎えられている幸福感であり、そして、それをもたらしてくれている、あらゆる人や物や事に対する感謝の気持ちである。

記憶にある、10年、あるいはもっと前の自分が、将来の78歳の自分を想像していた時の自分像は、少なくとも、こうしたいまの自分ではなく、もっと老いさらばえた自分であった。

ちなみに、10年前の自分とは、その3月、前立腺ガンと診断され、やもすると、5年先には命の問題となっているかもしれないと兢々とし、それこそ「いよいよ到来」と書いていた自分である。

ところがいまの自分は、10キロをはじれ、千メートルを泳げ、自転車で買い物に行って専業主夫をなんとかこなせ、美味しいと言ってもらえる夕食を作れている。

問題の前立腺ガンも、先月のMRIで「病変は安定」との所見である。

自分にまつわる、この二者の違いは、いったい何なんだろう。

 

それを、ちょっと経済数式的に、自人生の一周目と二周目の差とすると、これは、一周目の自分が創り出した二周目の自分への付加価値なのではないのだろうか。決して、負債の先送りでも、未来の先食いなぞでもない。

正直言って、その当時の自分は、今のこんな自分を、夢でさえ想像していなかった。

そして、その当時の常識では、“老いる”ことが、これほどまでに幸せでそして豊かであるとは、自分も含め、誰も考えていなかった。

少なくとも当時、幸福な老後とされるイメージは、多少の弱りはあっても、相応な資産の蓄えをもった、そういう限りの“悠々自適”な老人像であった。

だが、いま、自らがはっきりと覚らされているのは、それが根本的な見込み違いであったということである。

そして確信をもって言えるのは、このいまの実感は、当時、かろうじてながらだったが、自分の〈内なる声〉を、信頼、リスペクトした結果であることだ。

 

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