動物から人間へ ; 更年期を境に

「二周目」から「一周目」を振り返る 〈その4〉

人間には更年期というものがある。昔は、女性だけの現象と言われていたが、近年、それは事実上、男にもあって、両性ともにその身体上の季節の変わり目を体験することとなる。

それの起こる時期は、人によってやや幅があるようだが、50歳あたりを前後して、この身体の季節の変化が訪れる。

その更年期を、身体面とはややずれるが、精神面や社会的な変化も含めて、「還暦」と重ねて合わせて受け止めてみる。

すなわち、本シリーズでいう「一周目」から「二周目」への節目としての更年期である。

 

その「二周目」も、はや四分の一ほど来た今から、改めてその更年期を振り返ってみると、その季節の変わり目が、生殖能力の境目であったことを痛感する。「二周目」とは、もはや子をもうけられる時ではなく、ことに女性ならそれは決定的だろう。そしてこの変化をさらに言えば、〈動物から人間へ〉の変化さえを意味する。

この身体の季節の変化を実際に体験してきた身として言えば、この生殖能力を失うという現実は、いかにもドラマチックだった。たとえば、「言うことを聞かない息子」といった切ない片面がある一方、危険なほどだった〈動物的〉衝動が落ち着いてくれることで、正直、安堵させられている他面もある。

あるいは、結婚して子供をもうけ、その子育てに追われる夫婦の場合、まだ更年期前であっても、「もう家族になってしまって、女ではなくなった」――逆もまた同様だろう――との話がある。まさに、この〈動物から人間へ〉の変化ではないか。

本物の動物なら、生殖能力を失うことと死とは、さほど隔たったことではない。だが人間の場合、その後の期間が、ほとんどそれ以前の期間に代わらないほどに長く、そして年々、伸びてさえいる。まさしく、明瞭に際立った「二周目」である。

 

そこでこの「二周目」を、動物期を終えた人間期と見れば、動物期には見えていなかったことが見えてくる。すなわち、相手が持っている、性別でなく、個性である。言うなれば、人を性のメガネを通してしか見られなかった、そんなモノトーン視野からの卒業である。

そうした〈人間化〉した「二周目」にあっては、たとえば、そのもう「女」ではない相手についても、そういう長年の関係を色付けてきた、その人らしい、変わりようもない特性が見えてくる。そしてそれに気付けば気付くほど、相手の人となりがいかにもいとおしく感じられて、それこそペットではないが、ほっこりさせられたり、癒されたりもされてくる。

若い時分の、男と女がなしていた、zooのような社会感が、humanな社会感となってくる。

 

こうした季節の変化を過ごしてきた人間にとって、コントラストばかりが強調された時期には無かった季節感覚が訪れる。そして時には、性の区別が横暴でさえある、そんなデリケートな感覚も芽生えてくる。それを「晩年」と呼ぶのは一方的で、年齢しか目に入らない、紋切り型な呼称でしかない。

人生「二周目」とは、決して「一周目」の繰り返しではなく、新たなヒューマンな時期の到来である。

Bookmark the permalink.