「現役」とは「分業」の一駒

「二周目」から「一周目」を振り返る 〈その1〉

前号では、「二周目も四分の一を経過」とのタイトルで、今月20日で78歳となる、還暦後の心境をつづりました。そのほぼ20年間「何に取り組んできたのか」との問いに対し、自身の積りや思いとしては、現役期からリタイア期への「生き方」上の移行でした。この「生き方」との問いには、〈いかに喰ってゆくか〉との経済上から、〈何を価値にやってゆくか〉との信念上へとその観点は広範囲にわたります。今回からのこの新シリーズでは、そのうちから、前者の観点にフォーカスします。そしてそれを、誰もが避けられない要件にもかかわらず、自分の能力や遭遇した運で片付けられがちな微視的な視野から、もっと巨視的な視野へと見直してみます。ある意味では、自分の経験に立つ振り返り談でありますが、そうした、《「分業」から「退業」》へとの無職化の過程で問われる現実との〈すり合わせ〉の問題への私なりの見方です。

その第一回は、私たちの誰もが担う「現役」という役割は、歴史、ことに近代産業の発展史に見出せる、〈分業〉と呼ばれる巨大な潮流における、その最も末端での個人上の在り方であったことです。

生産様式上の〈分業〉

つまり、〈分業〉とは、専業化された無数の生産要素の集合による複合的生産様式のことで、そうしたそれぞれの要素の専業化が、生産の能率向上の推進役となっていた基幹的生産構造のことです。この〈分業〉なくして、今日の高度な産業社会はありえません。

だからゆえに、働く一人ひとりとしてみれば、生存して行く収入を得るため、何らかの専門職をこなさねばならず、その腕を磨き、生涯をそれに費やして、最終的には定年という「退業」を迎えることとなります。

それに加えてその「退業」の際、ことに何らかの理由で「現役」の継続が必要となった場合、自分がつぶしの効かぬ専門性しか持っておらず、しかもその専門がそのごく狭い範囲にしか通用しないものであったとの壁に遭遇します。つまりそれは巨視的には、上記のような〈分業〉が求める必要のごく一角をそのようにして担ってきた、あるいは、担わせられてきたがゆえです。

〈分業〉観の出どころ

ところで、ここで視点を転ずると、こうした〈分業〉と〈科学〉は、いわば双子の関係にあることです。つまり、物事をより細かい要素に分け、そうした構成要素による集合が全体を成すとの見方によります。その〈機械的構成論〉により、〈分業〉と〈科学〉は、実践と理論とのそれぞれの役割関係をもって相互影響し合い、各々の分野での分析と構築を行ってきたと言えます。

そのため、そうした科学的世界観は、生産様式にかぎらず、もはや、社会のあらゆる分野に行き渡ってきています。

いうなれば、今日の文明は、あらゆる分野における〈分業〉が、子細かつ緻密に組み合わされた集合体と言えます。

〈分子〉としての自分

それは、私たちが自分自身を見る観点においても、そう意識するか否かに拘わらず、同じように働いています。

たとえば、「一業にひいでる」という言葉がありますが、これは、近代の産業社会で、そうした〈機械的構成論〉に立つ、自らの存続を確保するための一種の鉄則であったことが判ります。すなわち〈分子〉としての人生観です。

そして、そうした役割をになった現役期をまっとうし、日本的には定年、(年齢による差別を禁じる)国では自主的リタイアをもって、「退業」の時を迎えます。

つまり、こうした歴史的かつ私的キャリア上の〈分業〉の時期の終了です。

ひと昔前なら、こうした「退業」と人々の寿命との間にはさほどの年月的な開きはなく、定年の後は、俗に「余生」と受け止められて、さほど長くない終末人生期を送るのがつねでした。

ところが今や、私たちの寿命は延び、2023年の日本人の平均寿命は女性が87.14歳、男性が81.09歳です。つまり、平均としても、「退業」後の人生は、かつての「余生」どころの話ではありません。

言い換えれば、社会は、〈分業〉による高度な生産性達成の結果、その構成員に、かつてなかった〈分業〉後の新人生期を作り出してきています。

ポスト〈分業〉の人生

かくして、〈分業〉後の人生は、新たな歴史的現実として、人生の後部に必然的にやってくる、ひとまとまりの人生期となっています。

また、この〈分業〉後の人生とは、いわゆる稼ぎ労働からは解放された、それこそ「悠々自適」な人生期のはずです。こうした現実が大規模に出現しているのは、歴史的には初めてのことと言えましょう。

ただ日本では、こうした〈分業〉後の人生が、どんどん先延ばしされてゆく傾向があります。つまり、「悠々自適」な人生期どころか、その余りに困難な経済的地位のため、その「退業」を進んで選択できず、それこそ「死ぬまで働く」時代とまで言われる状況が生まれてきています。

いや、正確に言えば、その選択ができる人とできない人とが、明瞭に分化されてきていると言えましょう。

 

 

 

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