18日付の「日々両生」にも書きましたが、今月26日で、オーストラリアに上陸して満40年となります。そして私の人生は、海外での居住がもうその半分を越えるまでになっています。
そうした先日、なんとも唐突な衆議院選挙に在外公館投票するため、急遽、シティーの総領事館まで出向き、そしてそのついでに、紀伊国屋書店のシドニー支店に立ち寄りました。
久しぶりのシティーであったとはいえ、同書店の日本語書の売り場の変わりようには驚かされました。ひとことで言って、私の世代はおろか、中年以上向けの本の陳列は大きく縮小されていました。
それに代わって存在感を増しているのは、若者向け、ことに漫画やアニメ関係、そして、流行りの雑誌や子供むけの、いかにもカラフルな本の売り場です。
ことにジブリのアニメの本などは、ひとつのコーナーをなしていていかにも目立っています。
また、まだオータニ君の本は目につきませんでしたが、ユズル君の本は、表紙を顔写真で飾った大型本が目に飛び込んできました。
要するに、売れ筋が大きく変わっているらしいのです。
上客であった企業駐在員の数が減っていることもあるのか、数年前では確かな存在を占めていたビジネス関係書も、今ではそれ専用の書架も設けられておらず、小説や評論などの一般書の中に細々と混じっている程度です。
それに最近では、結構、電子出版されてオンライン購読できる本も多く、加えて、当地で売られている本は輸入コストが上乗せされ、その価格は正価の2倍半ほどもします。そのため、私もそうですが、数冊をまとめた梱包として日本からネット購入すれば、その一冊当りの送料は結構安くつきますし、到着までの待ち時間も、通常、一週間は越えません。ゆえに、わざわざ海外価格の本を求めるまでもなく、よほどの急ぎでない限り、それを買うことにもなりません。
でかけた日は天気もよく、久々に市中を歩いてみましたが、ビル街にも変化が見られ、通りを行く年配者といえば観光客らしき人たちで、他のほとんどは若い人たち――つまり現役の人たち――ばかり。
こうして、世代代わりををしみじみと感じさせられた一日となったわけでした。
選挙の話にもどりますが、私の投票権登録地である東京中野区は、今回より、杉並区の一部と合わさって、27区という新たな選挙区となりました(大都市東京の選挙区とはいえ、なにやらすごい番号で、まるで東京の辺境部扱いのよう)。
昔の話ですが、私の日本時代の1970年代初めから80年代半ば、新婚による中野の木賃アパート(ほとんど、「かぐや姫」が歌う「神田川」の時代)から、やがて杉並の中古1DKマンションへと引っ越しました。そうした両居住地が、かくして一つの選挙区にまとめられました。
記憶としてはけっこうはっきりした別々の部分なのですが、なにやら、これまたそれらがいっしょくたにされた感があって、時代の変化の別様を感じてしまいます。
それにその27区の立候補者を見ても、名を少しでも知っている人はもう一人もいません。
ともあれ、国籍でも心情でも、今だに日本人であることに変りはないつもりの私なのですが、今日の危なく様変わりしている世界情勢にあって、日本の政治には各段のしっかりさが必要と切に思います。そこで荒治療ではあろうとも、なんとか自公の“我利我欲”の近視眼政権の息の根を断ち、変革開始のきっかけを作るための一歩をかけて、今回の投票は、消去法式の現実判断を優先することとなりました。
ちなみに、先の日本の被爆者団体の活動へのノーベル平和賞の授与を見ても、世界唯一の被爆体験国でありながら、世界に向けて国を挙げた核廃絶の提唱もできず、戦争を前提とした国の在り方に傾く方向がいかに時代錯誤であるのか、明瞭な、地球社会世論そして未来感覚となっています。
一方、いくつかの報道サイトを開ければ、覚えのある名前の鬼籍入りを、ほとんど毎日のように見かけます。
また、このシリーズ〈半分外人-日本人〉の視点では、私という“種”は、生物的にも人口的にも――“絶滅”までにはまだ間があるにしても――、明らかに希少残命種へと移ってきています。
そして、この間の“達成”あるいは“孤高”の意気は萎えないとしても、これまでのような、群れの一員としての帰属感とそれの反転した独自志向を味わう場が、しだいに遠のいてきている感は否めません。
こうして、私の40年の“越国境”体験は、ますます“クイア”の度の際立つ領域に入って行こうとしています。
どうやら、本サイトの500号との節目は、そんな意味も伴っていたようです。
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