次の十年紀へ

見誤れぬ、足下の一歩一歩

《「人生二周目」独想記》第4号

今年の8月で、私は78歳となります。

そしてこの2024年は、これまで、おおむね10年毎に新たにしてきた私の人生サイクルをめぐり、新たな節目の年になりそうです。

というのは、まず、ひとつのサイクルの終点として、既述のように、前立腺ガンという「災難」に遭遇し、対応に追われた10年間をへて、とにもかくにも、「ガン付き健康」といった腹構えを持つことで、ひと区切りを付けれたことです。

そして起点として、この「独想記」を一種の装備とし、「山頂なき登山」であれ「海図なき航海」であれ、「究極のゴール」を目指して、むろん結末の成否はさだかでない、冒険めいた試みが始まることです。

そのような展望を託して、これからの10年を、体験してきた諸サイクルを下地に、次の十年紀にしたいとするものです。

パキスタン、フンザ渓谷。右はラカポシ峰(7788m)〔2019年筆者撮影〕

 

このように、何とか開けた見通しをつけられたこの年頭です。

しかし、その反面、そのガン自体は、何ら改善していないどころか、症状ステージを上げてきてさえいます。

つまりは、自分の体内で時を刻む、時限爆弾をかかえているのも同然な状態は続いています。

そこで、扱いを誤れないこの危険物のごとき「ドラ息子」について、西洋医学すなわち主流医学上の目下の対処は、定期的なPSA検査という積極的監視を続け、その進行状況をモニターしてゆくことです。つまり、この対処は、楽観的な予想の範囲においては、そのガン細胞自体への医療上の直接的介入は、特に何も行なわないことです。そしてそうした無介入がねらいとすることは、その息子との関係を、対処を急ぐあまり、「全摘」か否かと二者択一問題に帰させてしまうようなことはせず、可能な限りのウィンウィン関係を探ってゆくことにあります。

その一方、実際の医療上の介入という点で取り組んでいるのが、東洋医学あるいは代替医学上の対処です。そしてその取り組みの眼目は、自分のもつ自然治癒力(西洋医学の観点で言えば免疫力)の増強とその発揮です。換言すれば、私が体験上で知ってきた限りでは、主流西洋医学が発想さえしていない別の可能性の取り上げです。

現在、私がそのために行っている日々の治療行為のひとつはお灸です。ただ、浅見な内心を吐露すれば、このなんとも緩慢な対処がどれほど有効か、まるで新興宗教に頼るかの心理に似ていなくもなく思えます。しかし、そこは伝統医療が永くつちかってきた長期的効用を信頼して、倦まず弛まず、気長に続けています。というのも、同じガンでも遅行性を特徴とするこの「ドラ息子」向けには、まずは最適の対処と言えるからです。

それに加えて、自然治癒力を導き出すさらなる対処として、西洋医学で言うなら「ストレス」の軽減をはかる、なかなか工夫を要する手法があります。それは、自然治癒力の心神的効果の面での潜在性に目を配るというねらいを持って、自分の身体が発している微妙なサインを感知することです。言うなれば、そのキャッチを通しての〈自分の体との対話〉です。ことに、東洋的伝統思想や医療の視点で言えば〈瞑想を通じての気付き〉です。

この〈自分の体との対話〉は、日々の生活ではともすれば忘れられがちで、それでいながら、ひと時も途絶えることのない、実に広く精妙な世界です。

しかもそれは、一見、いかも静的な対応にも見えるのですが、私は最近、その動的な面にも注目してきています。それをここでは詳述しませんが、別記事で述べているように、運動や、ことに筋肉の働きが全身におよぼす役割です。加えて、こうしたこの働きと役割とその気付きは、上記の〈対話〉がもたらした、早くも現われ始めている自然治癒上の一効果とも言えます。

こうした自然治癒力を導き出すという取り組みは、代替治療の柱をなすばかりでなく、多角的なアプローチが可能なだけに、その諸効果を相乗させた、いっそう大きな成果――ガン細胞の自然消滅――となって帰ってくる期待すら持てます。そしてこの相乗効果は、西洋主流医療が捨て去っている可能性です。確かに捉えどころの難しさはあるのですが、そのように総合的に追求する、ホーリスティックな対処の要所であり、ひいては、生命のなしうるダイナミズム――まさに「ウィンウィン関係」の達成――と考えています。

 

この新たな十年紀は、このように開いた展望の一方で、日々の足下の取り組みをおろそかにできない、両面的なアプローチを課題としています。

さらに加えて、この「両面」という課題は、この独想記の第3号や『フィラース』掲載の「生命情報」最終章で述べた《双対的》という用語をもって言及される、二つの要素が絡み合って働く特異な現象に――ことに量子論との関連を含め――ついて、さらに新規な観点を提供しています。そうしたいまや最先端な知見ついては、号を改めて述べるつもりです。

 

いまからの十年後と言えば、その時の私は88歳です。

この年齢からかんがみても、この来たる十年は、過去のそれとは大きく様相を異としたものとなるでしょう。

そして平均寿命を横目にして言えば、私の最後の十年紀となる可能性のあるものです。

 


【バックナンバー】

1号2号3号

Bookmark the permalink.