《メゾライフ》

リタイア後人生の新フェーズ

《「人生二周目」独想記》第15号

前回の「続・健康力」に続き、そういう健康力がある二周目の人生を、《メゾライフ》と呼び、そのビジョンを描こうと思う。そしてまずこの《メゾライフ》とは、二周目という回数的なその次というよりむしろ、質的な意味でその次とかその上ともいう、此世と来世との「中間」にあるライフと言う意味での“メゾ”ライフである。

そして、その中身といえば、長い人生経験というメガデータと、健康に働く身体・脳機能とが相互作用し合う、老いながらとはせよ、生命活動の新次元である。

ことにその特徴は、一周目の、馬力ある故障のないエンジンに支えられた数量的展開と違って、そうして得た豊富なインプットを総合化し、かつ、そのアウトプットを環境や社会に還元しえるという意味で、もはや、老いた被造物どころか、俗にいう「余生」を越えた、能動的でもある新フェーズの人生である。

こんなフェーズが到来しようとは、誰が想像できただろう。少なくとも、私にはなかった。

ことに、これからの世界でそれをイメージすれば、物的生産性は、AIによって飛躍的に高まることで、人間がなす物象的生産への直接の関与は大きく減じられ、ことにリタイア後という「ポスト労働期」にあっては、もはや生存の義務的要素からは基本的に解放され、生きていることの自由度が大きく拡大して、いうなれば、誰もが創造者というアートの次元の日々と言っても過言ではない。

むろん、いつかは到達する永遠の旅立ちは避けられず、そこに、このように前向きな姿勢で軟着陸してゆく航路にあっては、ある意味で、現実離れするメタな様相すら、その実質を飾るものとなるだろう。

そこでは、狭い意味での生命の限界を通り越し、来世へとのメタな架橋をイメージしてそれに関わろうとする時、自分がこれまで、過去のこととして今の自分と切り離してきたことにも、にわかに連続的なものとして感じられる視界が生まれてくる。そしてそれは、個々の人生が、ひとつひとつ断片と受け止められていたものから、一連につながった連鎖へと視点の変わる契機ともなるはずだ。そういう意味で、歴史についての視界も大きく変じてくるものと思われる。

ちなみに、兄弟サイト『フィラース』に載せた「「漱石論」との遭遇を受けて(その2)」における、ことに漱石の個的人間像への関心は、そうした連なった視野のもたらす、ひとつの産物であると言えないか。

また、同サイトに登場しているキャラクター「MaHa」も、こうした構想に関連した産物である。

 

 

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