「AI時代」とは、まだ、始まったばかりのほんのとば口だろうに、早くもそれに「あらがう」などというのは、「早とちり」もはなはだしい軽佻浮薄な行為にちがいないでしょう。
あるいは、そういう時代に、そもそも「お呼びでもない」いい爺さんがしゃしゃり出るのも、よせばいい“古き左巻き”の御託並べなのかも知れません。
いずれにせよ、そうした時代錯誤は重々承知の上で、あるいは、むしろそれこそを意図もして、長らく馴染んできた老害心めいた話をご披露しようかともくろんでいます。
というのも、先にその走りを述べましたように、「AIの世紀」の到来を、「AI本主義」といったごろの悪い呼称や、「人工知力専制主義」なぞとの汚名すら着せようとした、そうしたへそ曲がりのやからの魂胆のネタを明かすのも、今向きには、毒の毒は薬とばかりに、案外、役立つ場合もあるかも知れぬとうそぶくがゆえです。
まずはじめに、その結論を先回りして述べておきますと、「AI時代」とは、「TV時代」を繰り返す、その version 2 となるのではないかというものです。もちろんその程度は、たんなる繰り返しどころか、はるかにウルトラな v. 2 です。
そこでこの「TV時代」とはいったい何であったのかと言うことですが、それは前世紀の半ば、TV放送という最先端テックが実用化された際、その遠隔映像電送技術が「CM」という宣伝方式と一体化して「利器」すなわち「金のなる木」と変じ、広く社会に普及、浸透したことです。
つまり、どんなに便利な技術の発明であろうと、それが利益を生まなければ、この資本主義の世の中では「利器」にはなりえないことです。ことに、その技術の開発に大きな資金を必要とする場合、金銭的見返りを生まない技術であるならば、いくらその便利性が予想されても、誰も資金を投資してくれないということです。
言うなれば、お金が絡んでこない、いわば無料で使える「利器」は「利器」とは言えず、着目もされず、冷徹に無視さえされて、マネーファーストの資本主義社会においては、普及も浸透もありえないということです。
すなわち、本来は、どこでも誰でも無料で映像をキャッチできる技術――その先駆の技術はラジオ放送――であったものを、利益を生むシステムに組み替えたものが今日のTV放送で、それには映像の無料視聴中に頻繁なCMがはさみ込まれており、利用者は半強制的にそれを視聴させられるという仕組みです。
つまりそこには、TVという実に便利な技術への誰しもの傾倒があります。庶民にしてみれば、それは映画や音楽をただで楽しめる機会です。ビジネスにしてみれば、自社製品を人々に売り込む有力な手段です。また、政治権力者にしてみれば、国民を洗脳する道具として、TVのうまみは決して外せない効用です。
以上のように「TV時代」を認識した時、それは、到来しつつある「AI時代」が、まさに瓜二つの時代となるに違いないことに気付かされます。
もちろんAIの場合、その「利器」たる効用は、TVなどよりはるかに高度で奥深く、へたな人間の能力レベルを上回る使用価値を備えているところがミソです。だからこそ、未来の技術として、まるで破竹の勢いをもって波及している様相です。
つまり、その正確、迅速、強力かつ広範な知力は、まさに、TVの次の時代を飾るに等しい効用を持っています。TV時代、私たちは無料で映画や音楽を楽しめることにつられて、コマーシャルを無理やり見さされたように、AIの便利さは、その入り口においては無料使用がエサとして配置され、いったんその味をしめた者はサブスクとして取り込まれ、永遠に去ることのないお客、すなわち使用料支払者となってゆくこととなります。
もちろんその使用の効果として、情報処理作業の効率化は飛躍的で、誰しもその魅力から逃れられなくなってゆくでしょう。
つまり、TVが、庶民、ビジネス、政治権力者といった社会各層でそれぞれに歓迎され、呉越同舟ながら、各者あいまってメディアという人間支配のソフトな武器へと変じていったように、AIもやはり今後の社会において、人間支配の神的存在と化してゆくであろうことは疑いありません。
くわえて、その支配の度はTVを上回ってはるかに高度かつ緻密で、私たちは、その影響圏から脱するのさえ至難のこととなるはずです。そしてひいては、AIの能力が人間のそれを上回る、「シンギュラリティ」と呼ばれる技術的特異点に達した以後は、人間がそれに隷属することさえありうると、事前予告さえされています。
ちなみに、そのシンギュラリティは2045年に起こると予想されており、だとすると、それはほんの20年先です。ひょっとすると、私は生きているうちに、それを体験しなければならないのかもしれません。
こうした、もうほんのちょっとの先であろうその未来を予見する時、それを「AI本主義」と呼ぶか「人工知力専制主義」と呼ぶかの名称のほどはどうであれ、過去、私たちが体験してきた資本主義やメディアの君臨、横暴を改めて想起する時、その似姿を「AIの世紀」に見つけそのカラクリを嗅ぎ出してみるのは、さほど困難かつ「時代錯誤」なことではないと思う次第です。