サイクルの変わり目

さあ「百花繚乱」しよう

《「人生二周目」独想記》第10号

このシリーズにある『人生二周目』という標記には、到来した「サイクルの変わり目」を股にかけるといった意味合いがあって、その変調といったものを、到来自体はやむを得ないとしても、ならばそれを活用したいとの意図があります。

そうした意図から言うと、今日の時代に暮らしていて、しだいに現実味を深めてきている、二つの視点があります。

そのいずれも、日本にとっては極めて深刻な課題であるはずなのですが、なかなか着手の困難な問題となっているものです。

その一つは、人々の生き方という見地からのもので、他は、すでにその問題は現実に顕在化していて、喫緊の課題ともなっているものです。

そこでまず、二点目から先に述べますと、それは、いわゆる2024年問題という労働時間規制を必要としている働き手に関わる問題で、ことに、それがゆえの運輸産業での物資の輸送力不足にまで至っている問題です。

私はもと土木屋ということで、いわゆるインフラ問題については部外者ではなく、近年の報道記事をにぎわしているそうした輸送力限界について、これまでに、いくつかの私見を述べてきました。

その最近のものは、別連載中の「話の居酒屋」第7話の「道路と鉄道って、別々でいいの?」で、この第7話は、その論議内容への賛否のほどは判りませんが、数的には、この連載記事の中でも群をぬいて読まれているものです。

そうした同話で述べている要点は、輸送力限界問題の解決法は、発生している個別な末端問題――つまり人手不足――自体への対処にあるのではなく、それこそ「臭いものはモトを断たなきゃダメ」ということにあるというものです。つまりそのモトとは、いまや産業の主役は情報に移ってきているのであり、物資輸送の問題も、情報産業の発達をフルに活用した、インテリジェント化をとげたインフラとして、情報化した産業と歩調を合わせた下部構造となるべきであると見るものです。

したがって、労働時間規制にともなう「2024年問題」にしても、そんな規制なぞは時代錯誤もはなはだしいもので、その規制で不足する運転手の確保が進むどころか、逆に問題をさらに広げる結果にさえなっている見当外れが生じているわけです。つまり、そんな枝葉をいじってすむ段階の問題ではないのです。

それは、運輸という建設に並んで典型的に伝統的な部門であるからこそ、その”人間臭い”アナログな性質をいかに情報化のスピードや普及に沿わせた現代的インフラ・システムに生まれ変わらせうるのかどうかが問われていると考えるものです。

いまや日本の社会のこの部門での「サイクル」は、そういうところに差し掛かっているとの認識です。

 

次に、人々の生き方という「サイクル」については、これはさらに複雑かつ悩み深く、私たちの人生の選び方という面ともからんで、従来の「サイクル」のまさに潮目に遭遇しており、ことに若い世代の生き方が問われています。

そしてその問の核心と言えば、親の世代の価値観や常識は、次第にではありながらも、もう完全に過去の遺物とさえなってきているということです。

そして、その変化が明快に現れてきているのがスポーツの世界であり、そうした黒白の結果の見えやすい分野から先行して、その流れはもう押し戻し不可能にまで進んできています。

もう少し広く見れば、生きて行くために避けては通れない関門である職業というものについても、既成のモデルの多くはもう、頼りになり難いことです。

たとえば、組織として、構成者の所属意識に支えられ、大規模に遂行されてきたてきた仕事の多くが、もはや機械やAIによって、人間に頼らずにこなされてゆくことが可能となってきていることです。要は、人間が成さねばならないことが、根本的に変化してきていることです(”並な仕事”は機械やAIに取って代わられる)。

すなわち、スポーツ界が「人間が成さねばならない」世界の典型――純粋に生身の人間の競い合いだから面白い――であるように、それに続く「人間が成さねばならない」職業的分野とは、間違いなく、芸術や職人わざ、そして対人サービスなどへと移ってゆくのでしょう。

言い換えれば、「仕事」のうちのモノ自体の生産の面では、もはや、これまでほどの多くの人を必要としなくなってきていることです。そして「仕事」の他面である、人々が生存のために不可欠であるという場も変貌してきているということであって、その意味では、親の世代の常識も、おなじく縮小の流れにあることです。

以上のような「変わり目」を突き詰めてゆけば、テクノロジーとヒューマンの世界は明快に分化――その両者間に介在する、テクノロジーの開発や管理を行う部門は存続してゆくでしょうが――してゆくということであって、テクノロジーが得意とするモノの生産やこれから変わるであろう運輸に関しては、人間のなす役割は、労働時間の規制どころかそれ自体が縮小され、私たちの活躍が期待される場はますます、人でなければできない分野となり、生産の概念も、そのようにヒューマン化してゆくことになるだろうと予想します。

そういう意味では、これからの新たな生き方の特徴を予見すれば、いわゆる「クイア」つまり「変わり者」が異彩を放ち合う世の中となってゆくのではないでしょうか。

それこそ、自然界ではまさに「異彩な動植物」が百花繚乱しているように。

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