続・健康力

「働く」のは金のためならず

《「人生二周目」独想記》第14号

前号に続いて「健康力」についてだが、このところ、報道記事で、運動のもたらす健康効果について、僕がずっと述べてきている極めて積極的な評価を、後追いしているような記事が目に付く。しかもそれは、ほどほどの運動という程度どころか、運動をすればするほど、寿命が延びるといったデータが確認されたとの話まで出てきている。あるいは、年齢を増せばますほど、運動の効果が精神の積極性を増して、それがますます、運動への意欲を促進するという好循環があるという。これは、認知症予防どころの話ではない。まさしく、僕がずっと実行し、体験として実感してきていることである。

今日も、今にも雨の降り出しそうな寒いなか、気の進まない気分一色だった。それを、誰ものように、「仕事だから」と気分をふるいおこし、雨の来る前にと準備運動もそこそこにスタートする。

初めの2キロほどは、その気乗りのしない気分にも引っ張られて、キロ8分30秒に近いスローなタイム。まあ、走り出しはいつもこうだし、無理しないで行こうと黙ってつぶやく。

そこからが、運動中の体との対話なのだが、こうした運動だって「仕事」であり「働く」ことじゃないかと、見方次第では一種のすり替えみたいな対話を繰り返していると、昔、「働く」ことに関し、金にならないものは働きとは見なされず、自分でもそう受け止めてたことを思い出した。

そういえば、家事労働が収入を伴わないため、専業主婦の肩身が狭いとの話もよく聞いた。そうした主婦の経済力のなさが、離婚を妨げているとの話もあった。なのに、今、自分は専業〈主夫〉をやっていて、そんな肩身の狭さは少しも感じていない。それどころか、美味しい食事を作ることが、間違いなく、相棒の働き甲斐に役立っているのが目に見えるし、その相互の分担はうまくかみ合っている。

つまり、何も金にはならなくとも、「働く」ことが直接に意味をなすことはありえるということと、再認識にいたる。どうやら、それほどに、「働く」ことを、金に結び付けないと済まない習慣がしみ込んでいたということだ。今や確かに、何も金を媒介にせずとも、「働く」ことを直接に生かすことができているのだ。かつてのような、そんなさみしい話ではないってことだ。

そう考えながらはじっていたのだが、そのせいか、それとも体が温まってきたからか、しだいに調子が上がってきて、やがて、よし、今日は10キロをやってみようとの気になってきた。

それで、5キロまで距離をのばし、その折り返し点でのタイムを見ると、42分35秒。まあ、そんなに悪くはない。

帰路に入ると、気がかりだった冷たい雨が降り始めたのだが、調子は悪くない。そこで、帰路の5キロをキロ8分ペースで「走れる」かを、やってみようとの意欲すらわいてくる。

こうして10キロをゴールしてみると、タイムは1時間22分29秒、つまり、5キロを39分54秒で「走って」いた。平均でキロ8分を切った7分58.8秒。おそらくラストスパートの1キロは、7分半ばくらいだろう。

こうして、運動を終えた際の気分は、1時間半前の、あの煮え切らない沈んだ気分とは打って変わって、雨に体は濡れながら、なんとも晴ればれした「快晴」気分だ。

もちろん、この「働き」には、1円たりとも、お金は関わっていない。

お陰で今日はいい気分で終えられる。きっと、心地よい疲労感もあって、よく眠れるだろう。

 

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