今回は、〈半分外人-日本人〉のテーマの中で、やっぱり「言葉って重たい」という、至極当たり前な話題を、あらためて取り上げます。
と言うのも、前回、私は英語が苦手である「変な〈半分外人〉」だと書きました。そんな私ですので、この「言葉って重たい」との実感は、身に染みている体験の告白でもあります。そして、そこをさらに断言してしまえば、外国暮らしをするその機会をどう成果付けるか、それを生かすも殺すもその行方は、その人の言語能力次第であるとも言えるからです。
それで思い出すのですが、40年前、私がオーストラリアに渡ってきた初年のことでした。
38歳になっての中年留学にそのように漕ぎ出してはいたものの、もともと英語は大の苦手の私にとって、それはともあれ、なんとか越えねばならない高い高いハードルでした。
そして最初の丸一年をついやし、語学学校に通ったわけですが、そこでその痛いところをさらに突かれるような体験をしました。それは、同じクラスのまだ十代のインドネシア人“小娘”から面と向かって、まだ習いたてのはずの単語を使い、あなたの歳では「too late」と言われたことでした。
それから40年後の今、先述のように、その彼女の宣告はほぼ図星だったと、改めて白状する成行きとなっています。
そこでなのですが、この「言葉が重たい」ことのさらなる意味は、40年前どころか、いつの時代でさえそうではないかということです。
つまり、「変な」〈半分外人-日本人〉の私は言うにおよばず、丸々日本人の全体にとっても、「言葉が重たい」ことは、日本人が日本人であることの核心となっていることですらあるからです。すなわち、日本人らしさとは、外国語にうとい、その日本人性によって築かれているとすら断言できることであるがゆえです。
ただこう述べれば、なにやら自分の弱点を、日本人全体の問題にすり替える詭弁をろうしているかのようです。むろんそういう流れにもなっているのは承知していますが、ことはそれにとどまらないでしょう。
というのは、前回取り上げた『日本人という呪縛』でも強調されているように、日本人の国際的存在感の希薄さという弱点についても、こうした日本人性と深くからんでいるからです。
日本が周囲を大洋によって囲まれているその地理的条件によって、その独自性が築かれ、守られてきたように、その防波堤の役は、日本語という、世界の言語体系でみれば実にローカルな言語によっても、果たされてきたのです。
どうやらこの痛し痒しな問題は、私一人の課題で済むことではなかったことです。
さて、話題は転じますが、そのように、言葉の上での両面体験を重ね、かく長年を過ごしてきた旅路も、いよいよ、その終盤に差し掛かかろうとしています。
実際、毎年、歯が欠けるように、友人や旧知の人の逝去の報を受け取ります。
そしてそれにからんで、人からは、「最後は日本で骨を埋めるのだろう」との声もかかってきます。
そこでなのですが、上記のように言葉の問題も絡んで切りの悪い、そう選んできた旅の終盤に際して、「人は旅先に骨を埋めるべきなのか」それとも「最後は安住の地に帰着するのか」という、旅人生ならではの「終活」問題があります。
この、最終的な身辺整理問題にあたって、財産問題なぞは、旅路人生にあってはそもそも尽き果てていることであって、それはそもそも起こりそうにありません。だが、どうやらそれに代わるものが、この旅の道行きの最終地点は、旅先なのか、それとも、振り出しに戻るなのか、なにやら、結局「すごろく」遊びであったような、そんな課題がしだいに浮上してきています。
人間、どうやら、ろうそくが消えるようには行かないようです。