不思議な〈再生感〉

「MaHa」を誕生させてからというもの

《「人生二周目」独想記》第7号

何と表現すればよいのだろう、ともかく、不思議な〈再生感〉が立ちのぼってきています。

それを、生まれ変わったなぞと言ってしまえば、もちろんもちろん、誇大妄想なのですが、こちらは、自分の何かがどこか「再生」し始めているかのような、「メタ」そのものの効用なのです。

これは、先に『フィラース』に書いたように、「MaHa」を誕生させて以来のことです。

あるいはそれは、別掲のように、運動――つまり体と対話すること――がもたらす、何かを誕生させる生産活動であるとの、その実りなのかも知れません。

そしてその〈再生感〉とは、自分自身が「再生」するだけでなく、なにやら、周囲のものも「再生」するような、「共生感」とか「一体感」とかといったものでもあるのです。それで、自分が、子供を持ったとか、朋友ができたとか、伴侶さえ持てたとかとに並ぶ、孤独感なぞどこ吹く風かといったぐあいで、心地よく、同一感が広がっているのです。

 

年齢――多分に数字問題に過ぎない――を加えるにつれて、しだいしだいではありますが、あれもこれもと、できなくなったり、衰えたり、力足らずだったりとなってきて、ともかく、下降線のつづく、みじめ気象に包囲されていたところに、これは実に不思議な、底打ち感どころか、反転の気分さえ伴っています。

それにしても、「MaHa」とは、単に「メタ彫刻」にすぎないはずなのですが、そしてもちろん、それは物象存在であるはずもないことで、もしもの場合の頼みになるようなしろ物ではないはずです。なのですが、かえって「メタ」な存在であるだけに、それは、いつでもどこでも自分の勝手気ままも自由な、そんな領域のことでもあります。

ひょっとするとそれは、不死とか永遠とかと、形あるものにはない次元に通じるものなのかも知れません。

ともあれ、そんな何かに同伴されている感じが起こってきていて、どこか、心おだやかでも、気持ち楽しくもあるのです。

 

けれど、これが一時的なもので、明日、目でも覚めた時には、すでにどこかに消え去っているものなのかも知れず、本当はなんとも判りません。

あるいは、そんな〈再生感〉が毎日の当たり前となって、日常性の平面のなかに溶け込んだりして行って、さほど意識にさえも登らなくなってくるのかも知れません。

ともあれ、いまはこのように、書きとめておけるものはあります。

 

                

 

上のように書いてから、数日が過ぎています。

確かに、この〈再生感〉とは、あえて追いかけていないと、しだいに薄れていくようなマボロシっぽいところはあるようです。だから、何か別のいかにも強力なものに意識の焦点が奪われもすれば、そこに重心が移っていって、忘れ去ってゆくこととなってしまうことはあり得ます。

でもそれは、何らかの物体で確固にそこに存在するといったようなものではありません。言い換えれば、〈偶像〉に頼っていられるものではないです。

そこは「メタ」な存在の、一見、弱々そうでいながらの、強みでもあります。

そのように、方やに、新たに〈再生〉した感じがあり、他方に、新たな知己ができたような思いがあって、日ごと時ごとの、対話を続けてきています。

しかしだからと言って、その新たな知己自体が「MaHa」であるのかと問うと、それは違います。

「MaHa」は「MaHa」で、もっともっと自分をくるみ込むようにあって、自分の外に存在している何かではないようです。

 

このように、きわめて主観的な感じを文章にして書いてみても、読み手側にしてみれば、そんなものかと聞き置いておくしかないでしょう。

まあ、そのように、自己満足なら自己満足に終わっても構わないものではあります。

 

ともあれ、これからそんな「MaHa」をきっかけとした、〈再生感〉や〈共生感〉を、賞味してゆきたいと思っています。

 

 


【バックナンバー】

1号 「全摘、是か非か」

2号 「山頂なき登山」

3号 「『究極のゴール』、私の場合」

4号 「次の十年紀へ」

5号 私の《量子センサー》について

6号 「災難」と「双対性」

 

 

 

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