今77歳の私がここオーストラリアに渡ったてきたのは1984年、38歳の時で、昨年はそのオーストラリア在住の長さが、私の人生のちょうど半分に達した年でした。
そうした意味では、私はまさに「半分外人」なのですが、そうでありながら、今だ日本国籍をしっかり持ちつづけているという意味では、「半分外人-日本人」でもあります。
また昔、S30年代末の昭和の真只中、「変な外人」という流行語がありました。たしか、タレントとして活躍しはじめていた日本在の「ハーフ」の外人たちがそう自称したことが受けていたのですが、私のこの「半分外人」ながらまだしつこく「日本人」であるということは、「ハーフ」か「ダブル」かはともあれ、そんな“変な”「半分外人」でもあるようです。
そこで今回を皮切りに、ここに〈半分外人-日本人〉とのコーナーを設け、その“変な”「半分外人-日本人」ぶりをさらけ出してゆこうと思います。
私の人生終盤に向けての、アウトプットであります。
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そういう“変な”「半分外人」たる私の“変な”ところの筆頭は、いまだに、たっぷり浴びてきたはずのその外国語たる英語に、苦手意識が強いことです。そこに加えて、アメリカの大統領選ではないですが、「高齢問題」というやむない言語能力の衰えがそれに輪を掛けることとなって、その苦手意識がさらに心もとなさへと進んできています。
幸い、ITだのAIだのとの目覚しい技術進歩によって、いわゆる翻訳やら通訳の問題は、そうした装置のアシストによって、驚くほどに軽減されてはきています。
そうしたなかで、私はまだ通訳機械は使っていませんが、翻訳アプリの使用――特にDeepL――はもうほとんど日常のことです。そして、それがまた、その衰えを早めているのかどうか、そのあたりは痛し痒しです。
こうした言葉の問題はさておいたにしても、このように、「変な××」と特定することで、何かにつけて“フツー”さの存在を意識しているのも、きわめて日本人的な習性です。
今回の「変な『半分外人』」とのタイトルは、まずは、そんな「フツー圏」をひとまずは脱したはずの外意識圏からの視界です。
こうした、定まるところのない落ち着かなさ――これまた「双対性」のひとつ――にフォーカスした視点がありうるのも、これまた、日本的な光景でもあります。