健康力

すべての力の根源

《「人生二周目」独想記》第13号

最近、「○○力」といった言葉をよく聞きます。「権力」だの「金力」だのは昔から言われてきた「力」でしょうが、「ブランド力」とか「コミュ力」と言った「力」は、新たに取り上げられてきている「力」です。

その一方で、この「○○力」といった言葉の逆関係の語として、「○○頼み」といった言葉があります。それこそ、なにはともあれ「金頼み」から始まり、ひいては「人頼り」から「運頼り」、切羽詰まってお先真っ暗となった時には、「神頼り」にいたります。

つまり、この「○○力」とか「○○頼り」の根底にあるのは、その人にとって、何が最も重要で、欲するものなのか、ということでしょう。

そうした意味の「○○力」とか「○○頼り」にあたる私のバージョンは、言葉としては平凡ながら、まだ、あまり聞いたことのないもの、それは「健康」、つまり「健康力」であり「健康頼り」です。

いうなれば、現在の私の幸せの根源は、この「健康」に発しています。

 

いま、私は年金生活をしており、いわゆる無職者です。そうではあるのですが、表現として、〈自分は、運動することを「仕事」としている〉とよく表現します。そして、だれもが「仕事」への従事が必要なように、私にとって、運動することが必要で、それは、私にとって、運動が健康に直結する条件であるからです。ちょっと興ざめする言い方になりますが、「健康を得るための仕事が運動」です。

そういう私は、最近、ますます、「医者嫌い」になってきています。正確に言えば、「嫌い」というより、「用心深く」なってきているということです。そして、必要と不必要を、よく考えて使い分けてきているということです。つまり、上の「頼り」という言葉でいえば、医者に頼ることは出来るだけしないように、という心構えです。

というのは、何も医者に頼らなくても、自分でできることが少なくないからです。もっと言えば、かえって医者に頼らないほうが、健康はより深まると気付いたからです。言い換えれば、回復力とか治癒力という言葉があるように、医者にしてみてもその手助けをするということが本来なのでしょうが、その真の使命は、患者の回復力なり治癒力を回復させ、維持することだと思うからです。

そういうことで、私にとって「健康力」は、自分で作るもので、誰かに頼ってえられるものはないということです。

 

私は、年金生活を送っていて、それこそ余裕はなくかつかつですが、ならば、働いてお金を稼ぐことを考えるかと言えば、こういう「健康観」に立って、いや、そんな時間があるなら、運動という仕事をして、健康力をより高めようと考えます。それに、健康でよく動き回れれば、家事や自活もゆきとどき、生活コストも引き下げれ、お金のかからない生活へと変わってゆきます。

よく言われるように、お金で健康は買えず、QOL(生活の質)の根源は、まさに、お金より健康です。

それに、医者嫌いにまではならずとも、医者頼りにならないためには、自分がもつ自分の体についての相当レベルの医学的知識は必要です。つまり、日進月歩の医学レベルの要点くらいは理解し、医者から言われるがままにならないよう、自分磨きも必要です。これも広い意味での運動、つまり、脳の運動ということです。

 

ところで、「強欲」という言葉がありますが、これは「金力」とか「権力」については実行可能ですが、健康にはそれはまずないでしょう。そもそも、その対象は自分自身を越えるものではなく、まして外部に蓄えることもできません。健康にとどめを知らぬ欲をもって臨もうにも、いずれそんな自分も死はまぬがれず、それ以上にもってゆけるものではありません。

「健康力」とは、そうしたわきまえや適度をおのずから伴う力であって、そういう意味でも「健康な力」です。

 

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