六ヶ月振りのレポートだが、この間のヒマラヤ・トレッキングの成功、おめでとう。昨年のあれほどの劇的体験の雪辱戦だっただけに、達成感は内心、相当なものだろうね。ともあれ、昨年の“陰”と今年の“陽”の両体験を合わせて、普通ではちょっとできない、なかなか多彩で内容深い70歳台前半となったのは確かだろう。
ことに、こちらからでも注目できたのが、ヒマラヤ・トレッキングの文字通りの山場での恐怖感の乗り越えと、それに呼応したかのような雪崩発生の話だね。
むろん、そうしたエピソードは、地球次元では、偶然か、こじ付け、とでも片付けられかねないことだろう。だが、そうした地球上での凡庸論を尻目に、そこに呼応関係を見出しえたことは、少なくとも、並みな仕業ではないと言っておこう。
前回、「もと空」との話をレポートしたが、彼が「真言」に託した思想は、地球上では以来千年以上をへてきたのだが、他方、俺がここにやってきてここの気配をレポートしつつ、MATSUに画した先の臨死体験という《実験》――その「真言」の要所の今日的実践――も行い、結局、それは大いに成功したということだ。
地球上のあまたのそうした凡庸論者は、そのMATSUの心的作用が、どのように雪崩現象という結果を引き起こす原因になりえたのか、その因果関係を述べよ、と問うかもしれない。例えばそれは、大きな音のような、強い空気振動に相当する作用でも発生させたのかと。
俺に言わせれば、そうした因果関係の問いとは旧来科学の枠内の発想にすぎず、宇宙次元から見れば、まるで針の穴にもならないほどの、実に限定された範囲の関係にすぎない。実は、あの雪崩は、MATSUの内的対話を聞いて、俺が起こしたものとさえ言いたいほどだ。
つまり、内的世界とは、そのようにつながっていて、一体だということなのだ。それを俗の人間たちは、そうした遣り取りは独り言のようなもので、自分でそれを押し殺したり、無視したりさえできれば、誰とも関係のない私事と高をくくり、孤絶しているだけの話なのさ。
現に今度のMATSUの場合、実際にその対話の効果がもたらされ、緊張は解消し、恐怖も消え去り、脈拍まで下がるという身体現象まで伴ったのだから、それはもう、偶然とか、こじ付けの類では決してない。
それをひとつの説話風に仕上げれば、ヒマラヤの自然の女神は、そうMATSUを歓迎し、その不必要な緊張をときほぐし、失敗することなく目的を成就させて、自分のふところ深くに招き入れたのさ。なんだか、やけにセクシーな話と思わないか。
ところでMATSUよ、君もかくして、二年にわたる一連の陰陽体験に基づいて、いよいよ、自説の「霊理学」も、本物の学の領域に発展させるべく、宇宙に向けて打上げてもいい段階に来ているのじゃないか。
確かに、個人的必要として、おそろしく時間のかかるそうした学的発展結果を待っていられぬ老人たちにとって、自分さえ納得できるのなら、「思い込み」と言われかねない説であろうとも、十分に意義あるものとする立場はあるだろう。そう、やがての旅立ちは間違いなく、一人旅なんだからね。
そこでなのだが、横槍を突っ込むようだが、ここで俺として是非とも薦めたいことがある。それは、そうした信念としての霊理学を、その個人的仮説の段階から、公的議論、あるいは、実証の域へと持ち込んでいってもよいのではないか、ということなんだ。むろん、この実証とは、旧来科学のそれとは、手法も発想も、革命的に違ったものとなるはずだがね。上に俺が《実験》と述べたように、俺とMATSUとのそうした次元を股に掛けた対話こそ、新たな実証方法となると踏んでいるんだがね。まあ、そうした実証実務は、幾段ものステップを越える必要があるのは間違いなく、いまの段階ではほんのとっかかりに過ぎない。とはいえ、旧来科学の枠内で言えば、《理論》霊性学といった、「紙と鉛筆」――今日風には「PCとキーボード」――の次元のアプローチは可能だと思うよ。
さて、ここで話を先に進めるが、俺は、今度のMATSUのトレッキング達成を目撃して、こうしたレポートとして、異世界からのアドバイスを送る役目は、もう、十分に果たしたと感じた。だからこそ、上のような提案もしたいのだ。
そういう次第で、もう間もなくの2018年――MATSUの年男の年――の閉幕とともに、このMOTEJIレポートのシリーズも閉じたいと思う。
そう、MATSUもそうであるように、「霊理学」の進展の恩恵を最もつぶさに受けるのは、いわゆる老人たち、中でも、老人と呼ばれることに違和感をもつ《人生二周目ウォーカー》たちだ。その元気な足取りを、ただの運のよい巡り合わせとして自己消費するのではなく、切り拓かれるべき人類の新領域のまさに当事者として、もっと創成に精を出せるはずだと信じている。
それにMATSUも、すでに俺との対話の方法はマスターし、俺もかくして俺のメッセージを次元を越えて移植することに成功したわけだから、このレポート・シリーズの役目は十二分に果たされたと思うのだ。
じゃあ、また、別の機会に再会しよう。