「心の持ちよう」の問題

〈連載「訳読‐2」解説〉 グローバル・フィクション(その82)

率直に言って、私は、このブッダ(仏陀)の章の「悟り」とか「ブッダは80歳で他界」の節を読みながら、昨年のクモ膜下出血による臨死体験や、今年のヒマラヤのトレッキングの際の心の動揺やその静穏化の体験などを思い出しています。

そうした一連の体験を、煮詰めて要約した言葉にすれば、《すべては心の持ちようの問題》と、この章が書いているように、言えてしまうから不思議なのです。

というのは、たしかに若い頃から、同じ表現はいくども耳にしたり、目にしたりしてきました。そしてその度に、「何と安易な言い方なんだろう」、「そんなことで済むのなら、世の中、何の苦労もないじゃないか」などと強く反発したものでした。

当時流行っていた「世界無賃旅行」、今でいうバックパック旅行に、ふるいたって旅立たなかったのも、そうした反発の一環だったようです。

それが、どこで道を誤ったか、その反発させられた言葉そのものに、いまや自分で納得し、自分で口にしているのです。

要するにこの違いは、心の持ちようは、当時考えていた程に簡単に変わるものなのか、それとも、それほど執拗に、私たちを捉えて離さないものなのか、そんな認識の差に発しているようです。

もちろん、昔も今も、世の中の諸問題の存在やその深刻さへの認識に何らの違いもありません。

ただ、それを解決してゆくもっとも有効な立脚点として、そこに立ち帰ってゆくしかないと思え始めているということのようです。

 

それでは、「ブッダ(仏陀)=その2=」へご案内いたします。

 

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