《質からくる質》と《量からくる質》

北米大陸-初-旅行レポート(その2)

世界に存在する「質」には、《質からくる質》と、《量からくる質》の両面があるようです。

私は、70になってようやく、このアメリカという「地球の一角」を初体験していますが、この国は、その後者の《量からくる質》の典型であるように思われます。

他方、私が人間として所与の条件として体験してきた日本という別の「地球の一角」は、前者の《質からくる質》の典型であるように思われます(ただしここに、質を量より上位に見る視点は一切ありません)。

 

日本の質、米国の質

この《量からくる質》とは何かというと、それは、ラスベガスを起点に一週間のドライブ旅行によって遭遇、発見してきたもので、一般に「グランドキャニオン」と呼ばれている、世界に名だたる地球の造形が人間にもたらしているものです。

今回、私と同行者のT――実質は旅行マニアのTがリーダーで私はその従者――は、こうした世界的「観光地」を訪れる場合の人ごみにはへきえきさせられるため、グランドキャニオンのメッカたる――つまりアクセスの容易な――ウエスト・リムとかサウス・リムとかと呼ばれている地域を避けることにしました。そして、そういう名称はないようですが、「イースト・リム」とでも呼ぶべき、この巨大スケールのキャニオン地帯の上流部を訪れました。つまり、車による機動力を生かしてあえて足の不便な地帯を選び、ぐるっと向こう側に回りこんで、“裏門”からのアクセスをこころみたわけです。

そのため、この一週間で走行した総距離は3,800キロメートル近くにもおよび、一日平均で500キロを上回るという驚異的なものとなりました。したがって、私はドライブが不得手であるため、少々の運転協力は果たしたものの、Tにかかった負担は大変なものでした。おかげで、この旅の一区切りが終わった後、Tは疲労困憊に陥り、へとへとで現地を発つ便に乗り込むこととなりました。

こうして、それほどの距離移動の実行を足掛かりに平面的なスケールの体験を一方に、そこに点在するこの特異なキャニオン地形地帯の垂直的な造形の双方を合わせて体験したのでした。そして、そうした三次元的スケールの大きさを文字通り体で味わって、この地形のもつ、特異な「質」を見出すことに至っていたのでした。

 

dscn4223

「デッドホース・ポイント」から眺望するヘアピンカーブするコロラド川。撮影地点から川面までの高低差はほぼ700メートル。

思うに、「西部」開発というその歴史過程をつうじて、こうした膨大な自然スケールに挑んできたアメリカ人は、その「量」の克服をつうじた、《量からくる質》というものを築いてきたのではないかと思われます(それは、たとえば中国人に代表的に見られるような、膨大な人数の創り出す「人海」の質とはちがっています。)

つまり、人間の意気と着想の問題として、そうした自然への対決が培ってきた、スケールが大きくダイナミックな発想という、出発点の違いがあるように思われます。

たとえば、地平線にまでまっすぐに伸びる道路を見る目は、両目のなす視角はもう平行線をなしているはずであり、その際の視神経の緊張状態を体感している人間には、脳の構造にもそうした体感の対応はあるはずです。まして、そうした地帯に延々と伸びる道路や鉄道を建設した者には、その計画にも施工にも、その巨大スケールを実行する困難を克服せねばならず、その技量を身に着けてきたはずです。

 

総じて、グランドキャニオンといわれる地帯は、キャニオン構造が二段、三段にも折り重なっていて、その重層構造のもたらす、私などの地形上の通念をくつがえす地形設定の違いが、訪れる者に驚異をあたえています。

海抜2,000メートルを越える大地の上に、さらにロッキー山脈がそびえ、その4千メートルに届く高峰を水源とするコロラド川がえぐって作り出した、垂直の浸食岩壁をなす砂岩地層への鋭い峡谷が、まったく平坦な台地に、深い割れ目のように刻みこまれています。まさに、数十億年の地球の地殻変動活動の断面がそこに見られます。いうなれば、水平と垂直の膨大な「量」の織りなす「直角的」地形造形です。

それとは対照的に、私などの親しんできた日本の山岳地帯の「三角形」の峡谷があります。

あるいは、先にレポートした、カナダ・ロッキーの氷河流動による「U字型」の谷があります。

グランドキャニオンには、そのような、地形構造的な特異なスケールの大きさが文字通り眼前に広がっており、その光景は純粋に訪れる者の胸を打ちます。

 

誇りある「国」とは

上に述べたように、私たちは、ただ、そうしたグランドキャニオンの最も中心的な地域を避け、その奥へと足を延ばしました。そうして訪れた、グランドキャニオンと同等的地帯の一つが、上の写真の「デッドホース・ポイント」であり、また、グランドキャニオンの「モニュメント・バレー」の同等の谷が「バレー・オブ・ゴッド(神の谷)」でした。

この「神の谷」は、その同等地帯と違って、入園料は徴収されず、また、その谷をめぐる道は未舗装の悪路で、その入り口には「十分用意された車両のみ通行可」との警告が表示されています。

お陰でこの谷には、車が散漫に見られる程度で、いわゆる混雑は見られません。そしてまさに、誰にも邪魔されることなく、その巨大な自然の造形に接することができます。

私たちは、好天に恵まれたため、さほど「十分用意された車両」でないながら、その悪路の走行をなんとかこなすことができました。そして、その谷の管理者であるはずのナバホ族に、あえてそう未開発のままに残している配慮に感謝していました.

 

【以下は「神の谷」のパノラマ・ビデオです(二画面が連続しています)】

これは、上の動画の後半の中頃に見えるメッサとビュートの静止画

これは、上の動画後半の目盛り11秒あたりで見える(撮影場所が違うため左右が逆)メサとビュートの静止画。ともに底部からの高さは3~400m。

 

その神々の谷を行きながら、超然と見下ろすメサ(テーブル状の台地)やビュート(岩の塔)に取り囲まれていると、これはいわば訪問者の感性の問題ではありますが、確かに、それらが語りかけてくるなにかが感じられます。そして、白人の入植による横暴以前、その地を郷土として独自の「文明」を営んでいたナバホ族が何を考えていたのか、強い関心を呼び起こされるものがありました。そして無性に、ナバホ族が作っているという「ナバホ国」の存在が気がかりとなり、急きょ、その「首都」を訪れてみようという決断となりました。

しかし、そうして車を駆って訪れた首都と教えられたところは、泊まる予定にしていたモーテルさえも見当たらない、さみしいナバホの町にすぎずませんでした。そのため、そこまでの長い道のりをみじめな思いで引き返すはめとなり、なんとかその日の宿を見つけてたどりついた時は、もう11時をまわっていました。この日の走行距離は730キロにもおよび、疲れ切った体で眠りにつこうとする時、ナバホ国首都訪問の望みはもう、夢となって消え去る寸前となっていました。

翌朝、私は、新たに調べ直した正確な情報をもとに奮起し、なおも執拗にその首都を訪れてみたいと提案、Tもそれに賛成してくれました。こうして、再度、長いドライブとなることを覚悟で、そのアリゾナ・ニューメキシコ州境にある首都「ウインドウ・ロック」へと向かいました。

 

「ウィンドウ・ロック」と兵士の像

やがて到着したウィンドウ・ロックは、その名の通とおり、大きな窓の開いた岩山を背後にした町で、その両翼にも独特な形をした岩々を擁し、そのたたずまいには独特な雰囲気を漂わせていました。俗な言い方をすれば、そこは、一種の「パワースポット」となっているようでした(写真上)。

その地は、南に面した高台で、緩やかに下っていった先には平原が広がり、その中央を川が流れています。おそらく、風水で言っても、「都」を置くに適した地だと思われます。

感心させられたのはそればかりではありません。そのウィンドウ・ロックのふもと正面には公園があって、その左手には泉が湧き出し、その前に通信兵とおぼしき兵士の像が、そして公園の中央には、ナバホ国の国旗と星条旗が相並んで掲揚されています。また、右手には、第二次大戦中の戦死者碑がたてられており、およそ150名の名が刻み込まれています。そして、兵士の像にも、戦死者碑にも、共にまだ新しい花や旗が供えられています。

さらに、その公園を正面にして、一見、何の飾り気もないものの、何か意味ありげな建物が建っています。そしてその玄関のドアの上には「THE NAVAJO NATION」と掲げられ、その両脇にもやはり、二つの国旗が対等に掲揚されています(写真下)。

dscn4583

ナバホ国大統領官邸正面玄関

T はそこで、なんのものおじもせずにそのドアを開き、中へと入っていきました。私もTを追って中に入ると、立派な受付があり、聞くとなんとそこはナバホ国大統領官邸であると言います。そして秘書の一人と思われる女性が、私たちの好奇心に親切に応えてくれました。

外に出て、その建物の周囲をよく見ると、一見、田舎の学校の校舎のような建物が何棟か見受けられ、それらには、それが裁判所であり、環境・観光省であり、労働省であり、そして警察省であるとの表示がありました。

つまりその一帯は、言ってみれば東京の「霞が関」にあたるところで、ナバホ国のまさに中核部でありました。

私は、そうしたありさまに触れて、先に「神の谷」で感じたものに通じながら、それを人間の社会の形に置き換え実体化た、ある種の同質な一体性を見出し、その創造性に深く感銘させられていました。

先のアメリカの近代的大都市で目撃したあの雄大かつ醜悪な文明とは、その根源を異にする確かな何かがそこには存在しています。

それは、アメリカ人がもつ「量からくる質」をえたその大自然の巨大なスケールから、「量」ばかりでなく「質」をも合わせてくみ取ってきた、そういうもうひとつの「質」にふれた感慨です。

そして、以下の話は決して偶然のことではないと思うのですが、こんなエビソーが上記の一連の旅の経験に伴っていました。

その一つは、ドライブの旅を続けていて、ある町のドライブインに泊まっていた時でした。その食堂で、一組のネイティブアメリカンのご夫妻と会話する機会がありました。そのお二人は、私たちが日本人であると知ると、急に親し気な様子を表し、さらに、両人種の赤ちゃんがともに蒙古斑を持って生まれてくる話にまでに話題は発展しました。そして別れ際に、モニュメント・バレーの奥に自分たちナバホの大事な町があるから、是非、訪ねてみてほしいと言われたのでした。きっとその町とは、ウィンドウ・ロックのことであったのでしょう。

さらに、上にあげた兵士の像が通信兵らしいと述べましたが、第二次大戦中、ナバホの兵士が対日本との戦争に重要な役目を果たしたという話です。

それは、太平洋戦争の初期、両軍の暗号技術は日本がまさり、戦争は日本優位に展開されていました。米軍はその劣勢を挽回するために、暗号技術の刷新を必要としていました。そこで新暗号技術を開発するために白羽の矢が立てられたのがナバホ族でした。というのは、ナバホ族の言葉が、発音も構造も特異で、他に例をみないものであったからです。そこで米軍は、通信文をナバホ語に訳し、それを送信し、そのナバホ語通信文を再度、英語に訳し戻していたそうです。この二度にわたる翻訳はナバホ族しかできず、彼らなくして、日米戦の形勢逆転はありえなかったとも言える話です。

ただし、この話にはさらなる因縁があります。そうして最前線に立ったナバホ兵士は、眼前の敵兵が、自分たちの背後にいる白人の味方兵より自分たちにそっくりで、複雑な思いを禁じられなかったといいます。

真っ青な空をその「窓」にうつした「ウィンドウ・ロック」を見上げながら、私の抱く気持ちも、単純なものではありませんでした。

dscn4595

およそ150の名が刻まれたナバホ戦死者の碑

 

 

 

 

 

Bookmark the permalink.