「トランプ勝利」と「LAの沖縄」

北米大陸-初-旅行レポート(その5・最終回)

この度の北米旅行の目的のひとつに大統領選挙のクライマックスを現地検分することがあったのですが、今回はまず、その見聞記から入ってゆきます。

結果として、トランプ氏が劇的な勝利をさらったその行方について、私は実際にアメリカに行くまで、それを確信できませんでした。ところが、まずサンフランシスコ、そしてロスアンゼルスと、アメリカ西海岸の二大都市に滞在して、ほとんど即座に、その勝利を確実視するようになりました。それは、この二つの都市の荒廃ぶり――前から耳にはしていましたが――を目の当たりにして、アメリカの陥っている問題の深さゆえ、尋常ではないことが起こりそうだと肌で感じたからでした。

ではこの実体験の以前と以後で私の何が違ったのか、それをひとことで言えば、事前ではいわゆる「1%対99%」という認識でしたが、事後では「1%対98%対1%」であったことです。

すなわち、アメリカ社会には、頂上の1%に加え、底辺の1%もあるのです。そして、後者が5%さらに10%へと、中間層を下端から飲み込んで、金属の腐食が広がるように、その社会を蝕んでいるのです。

確かに、トップの1%はアメリカの栄華を物語ってはいるのですが、実際に現地を訪れてそのストリートの一つひとつで目撃せざるをえない光景は、その「ボトム1%」の存在です。それは、前者の社会的華々しさを打ち消して余りある、あるいは、それほどの深いギャップがひとつの社会の実際の日常の中に放置され容認されているという醜悪さにおいて、とてもとても、選挙向けレトリックを並べ事実上の現状封印を公約する候補を選んですむような、そんな生やさしいものではないと実感できたからでした。

むろん、今回の選挙で、そうした底辺の1%の投票行動が結果を左右したわけではないでしょう。彼ら彼女らが、もうすでに忘れられ、無視された存在であるのは、今回も、そして前回も、変わりはなかったと思います。それにそもそも、彼らの投票行動なぞは無きに等しかったでしょう。

しかし、そうした底辺の1%を温存させるという醜さは、いまや次の5%、そしてその次の10%にも浸み出しているのです。明らかにそれは、社会の中間の数十%の広いゾーンの人たちにとって、かつてのように遠い底辺の事態として見過ごしておける、社会の「例外ごと」ではなくなってきているのです。

 

少し具体的に話をすれば、サンフランシスコでもロスアンゼルスでも、街路の片隅に路上生活する人たちの数は、それこそ、電柱の数などよりはるかに多く、しかもそうした人たちは人間ですから、食物も必要なら、トイレも必要です。

しかし、路上生活では、そうした人間としての最低の必要もままならず、たしかに立派な街並みはありながら、そのあちこちで、ごみ箱をあさる人たちや、ところかまわず糞尿をたれる人たちが横行し、アメリカという繁栄の結果の折角の見事な街の風景を、まったく醜悪な光景や悪臭で汚しきってしまっているのです。実に台無しです。

もちろん、大半の市民の生活は、そうした醜さや汚さを回避した場で維持されてはいるのですが、そうした世界に名だたる街並みすら、その風格はいまや地に落ちつつあると言わざるをえません。

日本でも、確かにホームレスと呼ばれる路上生活者は実在していますが、たとえば都会を歩いていて尿意をもよおした時、それを果たすための公共の場を発見するのはさほど困難ではありませんし、その場も、入れば危険を感じるほどに荒廃しているわけでもありません。

しかし、少なくとも私の滞在した二つのアメリカの大都市で、急の用を足す必要に迫られた時、それは、地下鉄の駅とか公園とかとのいわゆる「公共の場」のトイレで、その用が果たせることはまず難しいでしょう。たいていのそうした場は、荒廃しきった末にすでに撤去されているか、そうでなかったとしても、身の危険のため、立ち入りを避けるべき場になっています。加えて、スーパーとかマクドナルドとかといった店舗の「セミ公共の場」も、平常な状態を維持するために施錠されていて、客を装って鍵をもらわなくては使用できず、またその鍵も、自分のID(身分証明書)を交換に差し出さねば得られないほどのガードの堅さです。

つまり、いったんある社会が底辺の1%なり2%を作り出し、その放置を常としてしまった場合、残りの社会は、その醜悪さを排除し、あるいは、かろうじての自らの平穏を防衛するために、実に不便でものものしく、そしてまったく不快な日常を作り出さねばならないのです。

ある国がまだ発展途上にあり、そうした公共設備に十分な整備が行き届かない状態にある時、貧困な底辺の人たちの問題は確かに存在します。

私も、戦後間もないころの自分の幼年時代を思いおこせば、どの大都市でもきまって、路上やスラムで生活する人たちが群れなしていました。

このアメリカの旅の後に訪れたメキシコでも、そんな昔の日本を思い出す、ある意味でなつかしいような光景が見られましたが、トイレの問題は、それなりに賢明に解決されていました。

(メキシコの大都市では、市街のいたるところに「WC」との看板があり、ビルや路地の片隅が、どれも一回5ペソ――25円ほど――の有料トイレとなっています。入り口には必ずおばさんがいて、掃除に気を配り、使用者に紙まで渡してくれます。つまり、実用と雇用の両方がそう解決されているのです。もちろんその少額な料金も払えない人たちは大勢いますので街の汚れは無視できませんが、一般市民がほどよく安全で汚くなく急の用を足す場は、そのようにして確かに用意されています。)

しかし、私が今回の旅で滞在してきた二都市とは、そうした貧しい時代やメキシコのそれではありません。知らぬ人もいない米国カリフォルニア州の二大都市です。

ある社会が、その底辺に、そうした醜悪さを常態としてしまった場合、それはその直上に位置する人たちへの強迫感や嫌悪感をいやがおうにでもつくり出します。そしてもしその崖っぷちにさらされた時、誰も、そこまでは落ちぶれたくはないと、必死にもがくはずです。

もちろん、私の滞在したその二都市の中には、そうした醜悪さを街全体から上手に排除することに成功している地区もありました。そうした小奇麗で清潔な街並みは、私が子供のころより映画やテレビで親しんできた「アメリカ」のイメージと重なりはしました。ただし、今回の旅行で、そうではない他の地区の状態も見てしまった以上、その美醜入り混じる「アメリカの真顔」は、どうしても正視に耐えないのです。

 

私は、初めてのアメリカをそう体験して、その西海岸の二都市における第一印象を以上のように、1:98:1といった風に単純化して述べてきています。

ただ、この中間の「98」も、均質な塊では決してなく、その収入に応じたスペクトラムをつくっているはずです。つまり、底辺の醜悪さを恐怖やヘイトとして受け止め、その階段を転げ落ちないようしがみついたり、他から蹴落とされまいと競い合う、絶え間ないプレッシャーに脅かされているはずです。

選挙戦当初、まるで泡沫候補扱いだったトランプ氏が、しぶとく接戦を繰り広げ、予想外の勝利すら獲得しえたのは、おそらく、民主党陣営の左派にすら、「1対99」は口にできても、「ボトムの数%」への認識の欠如か、それの含む意味の認識の甘さが、その大失態を招いてしまったのでしょう。(倹約旅行者とちがい、そこに生まれ育った人たちは、疎まれる地区なぞに迷い込むこともなく、一生そこを避けて生活することは十分可能ですし、それが“平均的市民”というものです)。

かくして、今回の私の初のアメリカ体験に関して述べれば、かつてのこの国への憧れあるいは反発は自分の若気の至りの産物であったと飲み込ませたとしても、かの「頼もしきアメリカ」には、それでも一抹の尊敬は託し続けてきたところはあります。しかしその最後の期待も、こうして幻滅に至らざるをえず、この国はその尊大すら「張り子の虎」となっていたのでした。

(そういう意味では、9・11以来アメリカがまい進してきている「テロとの戦争」とは、「ボトム1%」を、自国の街の路上のみならず、世界のあちこちの小国に軍事的にまき散らす、方向と方法を変えた「恐怖感の偽“創”政策」だと見て取れたのでした。)

 

さて、そこで話は急転し、前回に述べた、『「人間事」ならではの「必然」』に立ち戻ります。

つまり、今回、アメリカを旅しながら、上記のように、片や、繰り広げられている大統領選挙戦と目撃した二都市の路上の現実の光景を重ね合わせつつ、他方、前述のように、「バージル荘」というなんとも居心地の良い特殊なアメリカの一角を体験していたのでした。そこで、こうした二面の体験が描き出す《コントラスト》について述べてみたいと思うのです。言い換えれば、この北米旅行で私が実見聞したそうした顕著な対比とは何であったのか、どうやらそれこそがこの旅の最終成果のようであり、だからこそ、それを見極めてみたいのです。

 

それは、個人感覚の上では、「アメリカ社会の真顔」に、正視にしのびない思いを強くしつつも、その日々を滞在する場においては、何か古巣にでも帰ってきたかのような心地よい思いに包まれる、アメリカLAの一角での実感でした。

そして、その違和なアメリカの実相と、実にしっくりとくる「バージル荘」のたたずまいという対比に身をひたしながら、むろん両者を相並べることの突飛さは認識しつつも、私はその隔たった両者間に橋がかかるかのように、「沖縄」というキーワードが存在していることを常に感じさせられていたのでした。つまり、LAの一角という任意な場にもかかわらず、そこに特異に漂う「沖縄」という固有地名の存在とは、これも、いかにも気になる尋常でない現象でした。

これはもちろん、私の個人的体験が背景にあり、それに影響されていることは言うまでもないことなのですが、私にとって「沖縄」という名は、どうしても、かつての対米戦争の終末の修羅場となった「沖縄」と無関係には考えられません。加えて、実際にその沖縄を訪ねてみて、そこで接した自然や地元の人々から受け取って得た思い出も、「沖縄」という名を、ことさらに特別なものとしている重要な要素となっています。

それに加えて、あえてその事実に無頓着でいようと努めない限り、その「沖縄」とそこに存在する米軍基地が引き起こす問題は、現代の日米をめぐる国際政治の現実として、知らないでいられる事柄ではありません。いわば、今日の世界において、日米の二国がそのか細い島の上に居座っているのは、まぎれもない事実です。

そういう意味において、一人の日本人に、「沖縄」という名を耳にしてとっさに胸にする、ある種の苦く後ろめたい思いが伴うのも、ことさらに特別のことではないと思います。

ただ、今回、アメリカへと旅立つに当たって、そうした「沖縄」を特に意識して出かけてきたわけではありません。むしろ、何の予想も予感すらも持ってていなかったと言うのが実情です。

にもかかわらず、それが実際にアメリカにやってきたその地において、いわば、思いもよらぬ人との寄寓な出会いが生じたように、「沖縄」と出会っていたのでした。

そしてそれが確かな事実であるならば、それは、前回の『「人間事」ならではの「必然」』で述べた、《旅という「ふるい分け」がもたらす絶妙の「縁結び」》のもう一つの実例であるとも言え、旅のもたらす、地理的発見を上回る、「人間的」あるいは「社会的」発見に違いないはずです。

私は、「バージル荘」の主のご家族が、過去にどのような体験をされてきたのか、むろん詳しく存じ上げているわけではありません。

と言うより、むしろそうした事柄は余計な詮索に違いなく、それより、ただそこに居合わせた人たちが実際に共有しあえている「感じ」、それのみで十分であるのではないかとも思えます。

すなわち、沖縄に関する現代国際政治のいきさつをことさらに知らずとも、この「バージル荘」を選びそこに滞在する旅人であるなら、ただそれだけで、ともに「宿り木」の思いを共有し、ある同質なものを共に抱けているはずです。

そして、そうであるならばあるほど、単なる知識を超えた感覚として、上述のまさに現実に存在する《コントラスト》の体験を共有しかつそれを介して、私たちは、共鳴や共振しあえる何らかの媒体を共に得ているということとなります。

そして、飛躍と論断されるのも想定して申せば、そういう媒体とはどうやら、物的富みの拡大追求とは次元を相容らせぬ、そしてむろん「偶然」とも決別される、「霊理」界に生じる必然現象かと思い至ってさえいるところです。

今回のアメリカの旅と「バージル荘」に関する限りでは、その共鳴をもたらす特異周波数は「沖縄」でした。そしてそういう脈略で言えば、アメリカの真顔と沖縄の基地が作り出す両醜悪は、ともに同源な人間無視に基づいています。また逆にその人間無視の対極には、それらの体験を《反歴史》化しうる、やさしく受容可能な到達点があります。そして、その両醜悪をくるみ込むように、そこに関わる人間たちがもたらして行くだろう、たしかな希望の和音ようなものを感受していたのでした。

 

さて、今後、また新たな旅先で、はたして、どんな周波数がどんな共鳴をもたらしてくれるのか、楽しみなような、また、どこかこわいような、そんな予感に満たされています。

 

 

 

 

 

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