日本語で「二股をかける」という表現には、一種、否定的なニュアンスがあります。つまりその表現には、芯がないとか、裏表があるとかといった含みを託して用いられていることが多いようです。
一方、私自身のボキャブラリーに「両方を採る二者択一」というものがあります。これは「二股をかける」とは逆に、言わばその「二股」を積極的に選ぼうというものです。つまり、自分が遭遇している難題は往々にして、見かけの上では「二者択一」な問題として立ちはだかっていることが多いのですが、よくよくと考えてみると、それが重要な問題であればあるほど、「両方を採る」ことが正解だったと気付かされることがしばしばったという、体験的ボキャブラリーです。
こうした二つのエピソードには、いわゆる「双対性」をはらむ問題の扱い方に、二つの対応が提示されているのですが、この「二股かけ」か「両取り」かというこれまた二択問題も、「お前はそのどっちなのだ」と迫られながら、実はその正解は、これもまたして、「両方を採る」ことにあるのではないのかという発想です。
ところで、以上のような導入を、私はこの〈半分外人-日本人〉とのテーマにおいて述べています。つまりその狙いとするところは、この〈半分外人-日本人〉というテーマとは、言い換えれば、〈日本人か外人か〉との文字通り二者択一な問題とされていることで、実は、その正解はこうした「両方を採る」ことにあるのではないのか、というものです。そういう意味で、日本人と外人との「二股をかける」ことの持つ「否定的ニュアンス」についても、考え直してみる必要があるのではないか、と思い立ったことによるものです。
ここで前回の「二重国籍を認めない日本」を再度取り上げれば、この二股をかけて生活している日本人にまつわる国籍問題についても、この「両方を採る」正解をもってすれば、二重国籍を認めるという方向が妥当になるということでしょう。
すなわち、体制あるいは制度としての国とは、それほど便宜的な——さらに言えばそれほど固定化する——ものにすぎないということです。
ここで私は、その便宜的なものにとらわれた〈半分外人-日本人〉というテーマを、そろそろ卒業する時期なのかと考えています。また、当サイトのタイトルである『両生歩き』の「両生」についても、そこに潜む「二股」的なニュアンスに関し、もっと一体化し肯定化したアイデアをもって捉えるべき、一種の曲がり角に差し掛かっているのではないのかと、思い始めています。
そしてさらに言えば、それが、80歳をもって始まるとする「人生三周目」のモチーフなのかもしれない、とも思い始めています。
ではそこで、その「三周目」に向けて「両方を採る」とはどういうことなのか。
それは、大きくは量子論的な「双対性」を含め、この世界にそれこそ数限りなく存在している〈一対〉を成す関係すべてについて、それらをもっと一般化したところで「両方を採る」式に考えてみれることではないかというものです。
そこで、こうした一般化したその考え方を〈両採り発想〉と呼んでみます。
すると見えてくるのが、この〈両採り発想〉こそが、人生「三周目」に向けたその柱の一つらしいばかりでなく、他方で、一種架空の場の設定という狙いを託してきた、兄弟サイト『フィラース』の役割についても、本『両生歩き』と『フィラース』とあえて二者に分けることも、何やら、必要なくなってきているような気配です。
言い換えれば、ここでこの二つの場を統合してみれるのではないかとの気運です。
すなわち、生活者感覚でここまで到達してきた「三周目」人生と、創作者感覚で取り組んできたものとの融合です。
これは、私好みの登山にたとえて言えば、それぞれ違った角度から違った登山道を経てきわめてきた、その同じ頂上への到達です。
さてそこでなのですが、たどってきた二つの登山道を、「生活者の道」と「創造者の道」と命名すれば、生活者として追求してきている健康年齢の延長と、創作者として到達してきている「自分彫刻」とは、合わせて言えば、〈生きた彫刻として生活してゆくこと〉であり、この統合とは、生活として、あるいは生きることとして、同じことを意味ししているのかも知れません。
そのような意味で、もはや、〈半分外人-日本人〉と〈「人生三周目」予告編〉という二つのテーマは、一体化していい時がきていると言えましょう。