続・架橋としての情報

「デストピア地球」から「ユートピア地球」へ

「四分の三プロジェクト」をめぐって

8月の75歳の誕生日を契機に、自前の「四分の三プロジェクト」を携えて、私は、残る「四分の一」に臨み始めたところです。そしてこの来たる「四分の一」は、言うまでもなく、これまでの「四分の三」の集大成であり、自分としては、なんとか終局点らしきものへとまとめたいところです。

ところがその一方、今の地球上に見られる光景とは、熾烈化をとげる気象異変であり、コロナパンデミックであり、さらには、東アジアを主舞台とした対中冷戦状況――英米が豪を巻き込んで進める原潜増強構想(AUKUS)――の不気味な動き出しです。そういういかにもデストピアな地球が、私のこの総仕上げの舞台となることが避けられない。なんとも容易でないこの先が予見されます。

そこでもしそのデストピアが避けられないのであるならば、なおさら、その対極である「ユートピア地球」を構想したく、加えて、だからこそそれは、時代の要請にかなったものとなりうるに違いないと考えます。

有力な二重の架橋関係

そうした時、昨年より、兄弟サイト『フィラース Philearth』において手掛け始めている「バーチャル地球」構想は、想えば予期せぬ巡り合わせでもあったのですが、時期を同じくして、その「ユートピア地球」への理論の側からのアプローチでした。

そこで今回の「続・架橋としての情報」では、こうした現実の側と理論の側を股にかけるメインな「架橋」作業として、両者を俯瞰する視野の有用性を探ってみたい。

さらにこのメイン架橋作業に取りかかるにあたって興味深いことは、その現実と理論という各々の側にもそれぞれのサブ的な架橋状態があり、合わせて、メインとサブという二重構造の架橋関係が見られることです。

それらを視覚化したものが上図です。

 

「人生論」と「生命誌」;現実側の架橋関係

そこでまず、この「現実側」からのアプローチとして、私の人生上の体験と生物学上の実際の発展という二者間においてのサブ架橋関係を見てみます。

ここで以下、前者を「人生論」、後者を「生命誌」と呼び、これらの間に見られるサブ架橋関係を見てゆきましょう。

前回に引用した生物学分野での究明者同士の対談を思い出していただきたいのですが、そのお一人が生命誌研究者の中村桂子氏です。

そこでこの「生命誌」なのですが、氏は、生物が生きていることを研究するには、DNAとか遺伝子とかを対象としてピンポイントに追究していても、命ある生物の全体はつかめない。その全体をつかむために「生命誌」を提唱したと語っています。

その「生命誌」ということですが、中村氏は生物学者でありながら、通常、生物学者は生物を対象物として扱うところを、そうではなく、生物の側に立って研究されている。そうした既存生物学の軌道を越えた研究の成果が「生命誌」(下図参照)、つまり生物自身のいわばダイアリーです。

この扇型の図が「生命誌」を描いた「生命誌絵巻」で、38億年前の生物発生を扇の要に、上端の円弧に描かれた無数の多様性ある生物を表している。

そこでこれはまたしても私の牽強付会なのですが、私はいま、そういう氏の立脚点と思いがけない類似性を発見しています。それは、私も、自分という“生物”を探究する者と一応は自称するとしても、とてもじゃないが自分を冷徹に対象体としては扱い切れません。そこで、どうしても当事者として自身の側に立って考えざるを得ないできました。そういう主客往復する立場と氏の生命誌との立場とは、互いに重なり合う発想に立つもつものと考えます。

また、私は、そういう自分の問題を、いろいろな学問からのヒントは得ながらも、その考察を、日ごろの生活臭を抜かない「人生論」として展開してきました。そうした生活地盤から離れない私の捉え方も、氏のいう「生命誌」という各生物のその側に立つ捉え方と、実に似た発想に立っていると受け止めるわけです。

つまり、生命という問題を、たとえば「生命とは何か」との設問に立って、研究者はそれを対象として学問的な定義や厳密性をもって取り扱うことを必要としていても、生命ある生物の側としては、日々刻々を生きている現場にあって、その「何か」が見極められるまで待って、生きることをお預けにしておくことができるわけではありません。

そこで氏のように生物の生きる現場の側に立つ研究者としては、そうした学問上の厳密性をたとえ欠いたとしても、それが現場で確信されるなら、たとえあいまいで未確定な要素であったとしても、それをどうにか含み込んで、仮説としてでも、その全体の要素を丸々に生かしたまま扱おうとするわけです。

私の言う人生論とか両生学とかと呼ぶものも、私という一生物の現場をめぐって、そうした生命の当事者の側に立つ丸々の扱いを志向するものです。

そういう意味では、「生命誌」とは生物の「人生論」です。

このようにして、氏の「生命誌」と私の「人生論」を並置する時、両者間に、扱う世界の違いはありますが、そこに「架橋」がなしうるような、共通する視野が見出されてきます。

 

さてそこで、その学問としては厳密性を欠く「あいまい」な要素に焦点を絞ってみます。

そうした要素は、いわゆる人生談義を語る場合なら、「人生とはそんなものだ」で済みます。ところが、科学であるはずの生物学においても、この「あいまいさ」を持っている諸要素が実際に観察、つまり発見されてきているというのです。

ここでその発見内容の詳細には立ち入りませんが、そこで注目されてきているのが、ことに生命情報を左右していることが突き止められてきている諸要素です。その例をあげれば、サイトカインと呼ばれる「いろいろな細胞の間で、相互調節をするための交信に用いられている情報分子」です。

このサイトカイン――一時、ガン治療の切り札として注目されたインターフェロンもその一つ――について、免疫学の世界的権威、故多田富雄氏は、「現代の医学生物学で最大のヒーローとなっているサイトカインとは、このような不確実性をはらんだ複数の分子群なのである」とし、しかもここが注目されるのですが、「サイトカインのキーワードとしては、冗長性、重複性、だらしなさ、多目的性、不確実性、曖昧性などあまり自然科学では用いない言葉が当てられている」〔『多田富雄のコスモロジー』p.89〕とさえも述べられていることです。

つまりこの情報分子は、科学が鉄則としてきた厳密な定義づけに対し、あたかもそれを裏切るかのように働いているのです。

このようにして、「情報」は、生物学の領域からも、しかも重複性とか曖昧性とかを伴って、かつ科学的に――実証に立って――登場してきています。

まさしく、この情報分子は、私が注目してきた「架橋」や「遊」の役割を担っていると見て間違いない要素となってきているのです。

つまり、科学としての生物学にとっても今なお謎の多い、生物を物体から区別する生命という特性に関わって、この「あいまいで、冗長で、重複し、だらしなく、多目的で、不確実な」情報部分においてそれが果たされているというのです。

一方、私のプロジェクトの目的は、私は科学者ではありませんのでむろん科学上の進歩にはなく、幾度も強調してきているように、生活人の一人として、自分の人生に役立ちうる道具や考えの発見や開発にあります。その意味で、厳密性や実証性より、「あいまいで、冗長で、重複し、だらしなく、他目的で、不確実な」ことごとは、いかにも人間的事実に即していて、私のプロジェクトにとって欠いてはならぬ必須条件と受け止めてきています。

そうしてきたところに、上記のようなその道の権威者によるそうした指摘がされてきているのですから、なにやら、科学の方が向こうから近づいてきた、そんな思いすら抱かされているところなのです。

 

「デストピア地球」と「ユートピア地球」;理論側の架橋関係

以上のように、科学に発する「生命誌」と私のプロジェクトを支える「人生論」との間に現実側のサブ架橋関係があって、冒頭に述べた現実と理論との二重のサブ架橋関係のうちの第一が明らかにされました。

こうして、いまや科学という現実界において、その厳密な還元主義に徹した方法論に、あえて「あいまい」な要素を重視する、脱還元的な限界突破法が提起され始めているのです。

そしてそれにとどまらず、ここにおいて二重の架橋関係の第二のサブ架橋関係として着目されるのが、そうした脱還元的な進展がさらに、人類的には地球環境救済の道に、そして個人的には人生道程上の飛躍台になりうるのではないかと推察する、理論的な視点です。

それというのも、上述のように、この「四分の三プロジェクト」に平行して取り組まれている兄弟サイト『フィラース Philearth』があるのですが、そこでは、一人の人間が行いうる自己創生を、地球規模において顕現すべくバーチャル地球」が構想されています。それは、同サイトの位置付けである理論的方策の開発の場における産物で、その意味で「ユートピア地球」をめざす視野です。

こうして、冒頭に述べた「デストピア地球」という現実がその不気味な姿を現し始めている現実状況に対し、理論的産物としての「ユートピア地球」構想が提唱され、そこに同時に、第一段階の現実側での架橋を通じた科学的進展と私の人生上の進展が、実感を共有して相互体験されてきています

ここにいみじくも「デストピア地球」と「ユートピア地球」との対峙に、私的ながらも具体的で実感的である二つ目のサブ架橋視野が作動しはじめています。

つまりこの二つの地球という隔たり、あるいは互いな異世界感覚に対し、これまでも幾度も体験してきたように、ここでもさらに橋が架けられ、きっとつながり合いうると確信するわけです。

 

今と将来を結ぶ「メイン架橋関係」

以上のように、二つのサブ架橋関係が確かめられ、それに加えて、その両者が互いに結びつきうる「メイン架橋関係」が浮かび上がってきています。

そこで重要なのが、この「メイン架橋関係」の舞台は、もはや私たち自身の内にあることです。そして、そのいかにも「自分事」である架橋作業をもってすれば、私たち自身の視界は確実に変化するはずで、おのずから、私たちの生きる姿勢も変わってゆくはずです。

あるいは、そういう今と将来を結ぶビジョンを描き上げるためにこそ、本稿は、上述の二つのサブ架橋関係という、私たち自身にまつわる足下の関係を考察してきたわけでもあります。

ちなみに、こうした足下の作業を通じた、自身の視界の変化、そして生きる姿勢の変化という体験は、私事ながら、たとえば3年前に遭遇した、ヒマラヤ山中での実体験とどこか通じています。それも、形を変えた「ユートピア地球」体験だったのです。

その音は雪崩の音だったのだが・・・

現在の地球上には、じつに残念ながら、この「デストピア地球」の混迷をいっそう深める、冒頭に述べた新冷戦といった危ない意図や、さらには、もっと禍々しい事態すらも起こってこないとは断言できません。

こうした世界の底なしなデストピアな気配を見るにつけ、私たち一人ひとりの生き様にも、それに影響されたこれまた根こそぎな仕打ちも予想もされ、また、それだからこそ、それをなんとか回避し、まともな道へと軌道修正する、新たな生き方が求められてくるのは必至です。

ならばこそ、その越境に有効な手掛かりとなるのが、この私たち自身が主となる架橋関係であり、そういう生命ある人間にしかできない自己創生の能力もって、「ユートピア地球」の創生を図って行けるはずだと展望する生き方です。

 

 

 

 

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