「∞メタ」頼りで《メタ》は得られない

真の《メタ》旅のすすめ

報道によると、フェイスブック(FB)は「メタ(∞Meta)」と社名を変更し、ユニバースならぬ「メタバース」とうたって、仮想空間のビジネスを展開するらしい。

そのFBと先陣争いする積りはないが、私の「META-MANGA」や「越界-両生学」の構想など、すでに「仮想」世界は新手の着眼ではなくなっている。それをあえて社名まで変えてまで打って出るのは、コロナ状況も作用して浸透した仮想空間が、「メタ」次元でいっそうのビジネス機会ありとの判断なのだろう。

一方、この「越界-両生学」の延長上に私の「四分の三プロジェクト」があり、これは、この《メタ》への着想を、人生の究極――老齢的のみならず本源的――の意味の探索において活用しようというもの。

まして、私のいう《メタ》空間を見るためには、たとえばVRゴーグルなどはまったく不要で、健全な想像力があれば足りる。それに、そうした健全な働きをもってした心眼がありさえすれば、おのずから見えないものも見えてくるはずと思う。

それを見るために、メタ社の場合、新たなアプリのダウンロードなどが必至となるだろうが、そもそも《メタ》とは、商機志向やプラットフォームがかかわる問題ではない。それは、私たちの内にある意識の覚醒の問題である。

 

ところで私は、すでに「映画館現象」という捉え方で、私たちの意識がもつ幻想性を述べてきた。

すなわち、そもそも私たちの意識は、多種の感覚器をつうじて取り込む情報群に基づいた映画スクリーン上への投射映像に拠っている。

したがって、その投影される映像次第では、私たちの意識も大きく左右されてしまう。

極端な場合、終始、一方的な情報を与えられ続ければ、私たちの意識は、まったくその方向に染まってさえしてしまう。いわゆる洗脳というケースである。

そうでなくとも、私たちの日常は情報に溢れており、その過多な情報環境から逃れるために、定期的なホリデーを不可欠としているほどである。

人によっては、コロナによるリモート労働のおかげで、奇貨にもその環境変化の効用を得たケースもあるようだ。

つまり、自分の周囲の環境を選ばなければ、私たちは事実上の洗脳状態に置かれ、本来の自分自身の意識というものを持てなくなってしまう。

そこに、あえて「自分を実験台」にするという、そうした環境選択のための方法論が提示される理由がある。

つまり、自分の意識を自分のものとするには、単に意識を意識上でいじるだけでは不十分で(私が映画ファンになれないのもこのあたりに理由がある)、自分を異なった環境に置くという現実行動抜きには、それはなされないという見方である。

 

その新会社が行うだろうアプリを通じたプラットフォームの広がりは、ブラックボックス化された「メタ」依存で、私たちの生命の創生力の発揮には期待薄だ。

まして、その「メタ」社の独占化された商品で得られるだろう体験は、せいぜい、その新バージョンゲームの「上がり」としての中毒症状だろう。

それに「メタ」社の製品は、最終的には人生のシュミレーションゲームにまでおよばないでは居られないだろう。そしてそのアルゴリズムは、たとえば中国式デストピアを下敷きに、それを巧みにグローバル化してゆく展望だろう。

しかし、生命はもともと、その根源において、物質と情報に両属する性質があるゆえ、命という不思議をなしとげてきている。

そうした事実の科学的実証も、徐々にではあるが進んでいる。

そしてその両属性とは、私たちの日々の現実から見れば、そういう「仮想空間《メタ》」の世界でもある。

つまり、私たち自身が健全であり続けるためには、自分の周囲の環境を変え、その「仮想空間《メタ》」を活用する必要がある。

そういう意味で、「旅」が必要である。「リモート」体験ではない。

加えて、私の言う「旅」とは、コロナパンデミックがあろうとなかろうと、旅立ち可能な「旅」である。

そうした《メタ》「旅」への恰好なガイドブックがある。

手前味噌ながら、私が昨年9月に出版した『自‘遊’への旅』である。

 

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