今日、日々刻々と深刻度をます高齢化社会にあって、まして自らがその当事者であるならなおさら、出来るなら「アンチエイジング」したいというのも正直なところです。それに確かに、その可能性がないわけでもないようです。しかし、私はそうした傾向を、決して見下す積もりではありませんが、それがもし人の自然な移り変わりに逆らう営みであるのなら、「アンチ」ではなく、進んでそれを受け入れる方向を探りたいと思っています。
すなわち、エイジングという生命の自然なサイクルにおける“秋季”現象について、私はさほどネガティブには考えられません。先に《「し」という通過点》という見解を表したのも、この秋季現象は、この世界への誕生と同様に、誰にも与えられる《別界への誕生》として、むしろ歓迎され、祝福すらされてもよいことではないかと考えるからです。
そこで、こうした《再・誕生》の発想に立って、今回より新たなシリーズを開始し、過去十数年にわたって取り組んできている「両生学」の新たな発展の場にしたいと構想しています。そして、この新たなシリーズのタイトルを「パラダイム変化:霊性から非局所性へ」とし、これまで使ってきた「霊性」という言葉に代わり、「非局所性」という言葉をつうじて――少なくとも自分の世界観、生死観の――パラダイムを変えたいと考えています。
最近私は「死後の世界」について、科学的な探究の変遷をまとめた英文論文に出会いました。そして正確な理解のためそれを訳読する中で(別掲にその邦訳)、これまでおぼろげにしか捉えられなかった「非局所性」という量子理論の専門用語の有効性を改めて確認し、エイジングという秋季現象をも含む、生命現象のサイクルに関する私なりの見方の発展を見出してきています。つまり、この用語は(私の我田引水によると)、一方では、個人の死後への旅を先端科学の視点でアプローチしうるものであり、他方では、超然現象をめぐって、科学と伝習的見方の間の深い裂け目に、橋を架けうるかの期待を抱けるものです。
これまでに私は、5年前の前立腺ガンの宣告を振り出しに、ことに2年前のクモ膜下出血による臨死体験を契機に、「あの世」を感じさせる、いわゆる超然現象に“自然”に遭遇することとなりました。そしてその実体験は、とてもじゃないが、伝習的な「霊魂」式の見方では捉え切れず、さらに、単にトートロジー〔言葉の置き換え〕としてではなく、科学的な概念として、「霊理」あるいは「霊性」の問題へと、自分なりの組み立て直しをこころみてきました。
そしてその一方、これは自分の人生開拓の手がかりとしてきた若い頃以来の思索作業を、幾分なりとも科学的に行おうとするこころみとして、古典的科学では行き詰まってしまう限界を越えるため、“新”科学のひとつである量子理論の、自人生への適用の有用性を探ってきました。
こうした結果、探究の枠組みとして、片や霊性問題、片や量子理論との《二元構造》を追いかけることとなりました。それは無論、私一人の関心事なぞではなく、学問界でも広く、Psi〔プサイ〕問題〔超然現象問題〕として世界中の人たちによって探究されてきている領域です。もちろん、上記の論文もそうした取り組みの一環をなすもので、それはそうした多々の探究を、(インタビューも含む)文献研究としてまとめたものです。
こうして、私は自らかかえた「二元構造」の難題を、両面をカバーしうる新タームの発見を足掛かりに、「霊性」に代わって「非局所性」を用いることで、さらに一歩前に進めうるのではないかと期待しています。つまり私にとっては、このタームは、霊性と量子理論の両界に引き裂かれた世界に橋を架けうるものです。ゆえに、私の言う「越境問題」のこもごもも、このタームによって、ひとつの領域に収れんできそうであるとの見通しを抱いているわけです。
ここでまず、このキータームである《非局所性》について概説しておきます。
二十世紀の幕開けと同時に、古典物理学は、物質の構成の源をさぐる分野において、量子力学という新分野を生み出しました。そして、物質の素をなす素粒子は、粒なのか波なのかという議論の中から、そのどちらでもない、あるいはどちらでもあるという、常識的には在りえない何ものかの存在を認めざるを得ない事態に遭遇しました。
あのアインシュタインですら、そういう考えを「気味の悪いもの」として拒否し、それを科学的事実として認めないまま、他界して行きました。
そこで、そのような言わば幽霊のような存在――ことに時間と場所を特定できない性質――を、量子理論では「非局所性」と呼び、他方、従来から親しんできた物体の在り方の見方――時を与えれば場所も確定する――を「局所性」と呼んで、両者を区別しました。
つまり、物質はその素粒子レベルまでさかのぼれば、この世の常識である局所性はもたず、捉えどころのない非局所性によっているという考え方に立つようになりました。
こうした非局所性は、数々の実験でそれが証明され、もはや科学的事実となっているのですが、ならば、そういうミクロ次元の事実は、私たちの身近な世界というマクロ次元にも適用できるのかということが、現在の先端分野でのホットな課題となっています。
私も個人的に、昨年、ヒマラヤの高地で局所性と非局所性の違いを体験し、その自らの“人体実験”を通して、その事実を確認できるに至ったとの思いを持っています。
そのように、非局所性というタームは、概念として、この世界を離れ、宇宙やあの世をつかさどる原理のひとつではないかと重要視されているものです。
このキータームにからんで、外にも、「エンタングルメント〔もつれあい〕」といった仲間の用語があります。それらについては、追々の議論の中で扱ってゆきたいと思います。
ともあれ、私たちが日常に用いている用語は、この世を説明するために考案されてきたもので、他の世界に適応するものではありません。
そういう次第で、二元構造の亀裂に橋を架けるには、そういう新たな世界に対応した新タームが不可欠なのです。
そしてこのシリーズにおいては、二つのテーマを取り上げ、それを架橋の手がかりにしてゆく計画です。
その第一は、数学という「宇宙言語」へのアプローチであり、第二は、仏教教理にある宇宙論という類似性への踏み込みです。
最後に、冒頭のアンチエイジングのエピソードに戻ると、上記のような二元論を解消させてひとつの領域にまとまりうる可能性を見る時、エイジングの最後に訪れる「し」という区切りは、ふたつの世界間の境界の通過点にすぎないことがいっそう明確となります。さらに、もっと野心的には、超然現象問題の先端科学的理解――おそらく量子理論のさらなる拡大――にもつながるものではないかと、あらぬ期待をも抱かされるわけです。
ともあれ、アンチエイジングもさることながら、自然の在り方に背を向けようとするのではなく、そのエイジングの過程を、そのありのままにフル活用することによって、迷妄や誤解や未解明に惑わされることなく、その深まり行く秋を、大いに前向きに楽しんでみたいものです。
言うなれば、自分自身がその素粒子と同等の振舞いをする体験が、そのエイジングを通して可能になろうとしているのですから。
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