小コスモスとしての本サイト

「自分って何人」シリーズ第3回

私は、オーストラリアに住んで、あと4カ月ほどで37年になります。時のたつのは早いものとは言いますが、オーストラリアに到着した日のことがつい最近のことだったように想い出されます。それに、私はいま74歳ですので、人生のぴったり半分づつを、日本とオーストラリアで暮らし分けたこととなります。

自分の生涯が、このように、生まれついた国と、自分で選んで住みついた国との二つの世界にまたがってしまうと、本シリーズのタイトルのように、まさに「自分って何人」との思いが切実になってきます。しかも、日豪各々37年づつのそのまさに均衡体験をもって、またがる両足への体重配分も、微妙な意味合いを含むようになってきています。

もちろん、自分の名前も人種も国籍もこの74年間、日本人であることに何の変化も生じていません。しかし、外国暮らしもこのくらい長くなると、ちょっとした振舞いや考え方などに、日本人らしくないものが漂ってきているようです。

それに加えて、ことに現在のコロナ状況があります。それによって日本への渡航も不可能な事態が長引き、もはや実感としても、日本がますます遠のいたとの思いを禁じ得なくなってきています。

そういう言わば「根無し草」の度をますます深めて行く自分にとって、一般に「アイデンティティー問題」と称されるこの問いに、何らかの答えを出して行かねばなりません。

私が、もし日本に居続ける道を選んでいたら、おそらく、この問題にこれほどまでに捕らわれることにはならなかったでしょう。

しかし、私にとって、こうした一連の《移動》がもたらす問いかけは、人間の成長に伴う問題の一つでもあって、「親離れ」の必要があったように、「国離れ」の必要もあったわけです。

言うなれば、親の庇護に甘んじていられない自分を発見するように、ひとつの国の国民であることに安住していられない自分を発見したわけです。

そうした《所与条件離れ》し、《自己選択》したがゆえに生じる自問に、まず、「自分とは何か」の問題があり、さらに、それを集団化、社会化したものに、この「アイデンティティー問題」すなわち「自分って何人」がある、ということです。

 

ところで、先に述べたように、私にとってこのサイトは、自分の「アバター」です。

ふり返ってみると、私がこのサイトを自分の「アバター」として捉えるようになったのは、それほど昔のことではありません。

若い頃は、同列の行為を自分のノートに書き留めることで済ましていたのですが、それはあくまでも、その書き手もその読み手も自分で、その一人称の世界を脱したものではありませんでした。

それが、ブログあるいは自分のサイトとして公開するようになると、当然に不特定多数の視点が前提となり、「誰かに読まれること」、つまり、ある種の読み手への配慮が必要となります。したがって、非公開の一人称の世界では、言わば、書いてあることも書いてないことも自明でした。しかし、公開した世界では通常、読み手は、その公開された情報を通じてしか書き手のことは知りえません。まして、それが書き手の都合の良いことばかりとは言わずとも、一面のみの情報であったなら、そんな片面ばかりに付き合わされるのは、たまったものではありません。当然、深い興味なぞは湧きようすらもありません。それにある意味で、そういう書き手は、無責任であり、自己陶酔者です。

そこで私は、それが自分の「アバター」であるのなら、あえて自分の色々な面をできる限りそれに与え込もうと努めてきています(「このサイトについて」参照)。むろんそれが完璧なものであるわけはありませんが、少なくとも、多面的な情報は提供されているはずです。

そして、そうした多面性の結果、本サイトは、それなりに多様な関心の読者を持てるようになっている、と受け止めています。(もちろん、ある一面のみに関心があり、他の面に興味のない読者も少なくないようです。)

 

私にとって、本サイトとは、そのような位置付けのものなのですが、最近になって、そこに新たな要素を発見するようになってきました。

というのは、本サイトの発行が継続され、その中身も蓄積されてくる中で、読者との一定のコミュニケーションも形成され、このように表されてきたこの「アバター」の場であるこのサイトが、ある種の《鏡》の役目を持っていることに気付いたのです。つまり、このサイトが、そうした多様な関心として、社会を映しているのです。

さらに、客観性という意味で、これまでのやや恣意的なコミュニケーションにまさる手段として、本サイトへのヒットの精密なカウントデータの膨大な蓄積があります。この数カ月で、そのデータを活用する手法がようやく使えるようになって、書き手と読み手の遣り取りの、リアルな関係がつかめてきています。

このようにして、本サイトは、大空に上げた観測気球のように、日本社会という大気の状況を読み取る、リアルなデータを送り届けてきてくれています。

また、本サイトが獲得できるようになってきた、たとえば日平均で千人程の読者数という数の厚みも、それに統計的な意味を与えています。読者数が少数であるなら、統計的な意味を求めるのは無駄です。しかし、それが毎日千人を越える数にもなると、それだけの意味は持ち得てきます。

すなわち、統計的なサンプル数として、この日平均で千人というレベルは、それをもって、日本社会の一定の動向を探るに足るに充分な数量ではないかと判断されます。

 

私は以上のような意味で、本サイトを、日本社会を分析する一つの観測道具になると考えてきています。

具体的にそれがどう有用かは、たとえば、今号別記事のその分析結果を見ていただきたいと思います。

かくして、私は、本サイトを編纂することを通じて、ある種の、どこにも属さない独自な場をつくりえてきたと考えています。そして、それがゆえの、本テーマの「自分は何人」という問いであり、その問いに対する答えは、私の場合、個についてなら「私は私人」となるでしょうが、集団的には、少なくとも現存する国名が充てられることはないものです。

それを強いて言えば、その集団のくくり方を、国レベルを通り越して、「自分は地球人」とでもなるのでしょうか。

あるいは、本サイトは、私が元首であり、かつ、たった一人の国民である、点のごとく小さな、ひとつの独立国であるのかも知れません。

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