日本“本国”では、いまや「昭和」が、レトロ趣味やら、あるいは逆にそれが新鮮と、「平成」越えた「令和」の話題をさらっているようです。そんな本国トレンドを知ってか知らずか、ここオーストラリアでは、当地に根を下ろした「昭和人」の特徴ある群像が見られます。それは、昭和世代にあたる人たちの見せる、この地での生きざまの《はつらつさ》で、あたかも、本国の同世代との思いもよらぬコントラストをなしているかのようです。昭和世代といえば、今年、上は96歳から下は33歳にいたる広い年齢層の人びとを指します。それに「昭和」人気は、誕生年号の「昭和」以上に、「昭和」が醸し出す特異な息吹にもよっているようです。今回より始まるこの新たな連載は、そうした昭和世代のうち、あえて豪州の地を選んで定着したさまざまな人たちを取材し、その《はつらつさ》の源泉を探ってゆきます。あえて名付ければ、「現代“ディアスポラ”日本人」の豪州版実像です。〔「ディアスポラ」の語源は、故国を後に世界に四散したユダヤ人のこと〕
その初回に、自らを登場させるには大いにためらいがあるのですが、このシリーズの案内係兼語り部役も必要としており、私、本サイト発行者のケースを手始めに、連載に入って行くことをお許し願いたいと思います。(なお、本サイトには、すでに記事にした私の体験ストーリーが多くあり、より詳細をお望みの方は設置のリンクをご利用ください。)
「両生」人生の始まり
私は、1946年(昭和21年)のしかも8月生まれということで、いわゆる「戦争を知らない世代」の文字通りのしかも最初の世代です。今年で76歳となり、このシリーズに登場予定の人たちの中では、最古参となります。それだけに、その“最長”の人生経験は、このシリーズの案内役には適役かと自負しています。
私は、1964年(昭和39年)の旧東京オリンピックの翌年(昭和40年)、高校を終え大学の工学部土木科に進みました。68-69年には世界各国に燃え広がった大学紛争時代を体験した後、当時真っ只中の建設ブームの先兵として社会に“出兵”しました。その後十数年、建設産業内の労使両サイドの職歴を経て、1984年(昭和59年)、38歳の時、仕事上の節目を機に、オーストラリアへの“中年”留学を決心しました。オーストラリアの労使関係制度を学ぶためでした。そして、語学学校での一年間の英語履修をへて大学院へ入り、オージーの友人と労使関係のコンサルタント会社の設立にかかわりながら、1995年(平成6年)、博士学位取得とほぼ同時に永住ビザも得ました。
こうして、当初、数年の留学予定を大幅に越えるばかりか、一時住まいのつもりがついに本住まいとなって、今日までその延長を38年間にまで大伸ばししてきています。つまり、私の76年間の人生は、日本時代と豪州時代がちょうど二分される、「日豪半々人」とでも称すべき人種に至っています。
本サイトを『両生歩き』と題し、また私の歩んできた世界を「両生空間」と呼ぶその「両生」とは、この「日豪半々」の二股体験に由来するものです。そして、この日豪両国にまたがる異社会体験は、私に「複眼視野」の形成をもたらし、一国専心人生とはまた別の、両生類特性を持たせてくれています。
珍しい在豪“男”日本人
ところで、私は、「若手型」つまり留学を起点にオーストラリアに定住することとなった日本人の中では、最年長部類に入るのではないかと思っています。むろん、年上の定住者も存じていますが、その多くは、職務上の必要での来豪をきっかけにした方々で、特に男性はほとんど例外なくそのようです。
ところが日本人女性の場合、オージー男との相性がいいのか、結婚をもって永住に至ったケースを、それこそ数を挙げ切れないほど知っています。その中には、私ほどの年齢の方も何人かおいでで、後に、本連載にも登場いただく予定です。
また、戦前の昭和あるいはさらに昔の世代には、ほんの少数、出会ったり話を耳にしたことがあります。そうした大先輩女性たちは、戦争後、日本に駐留した豪州兵士と結ばれて嫁いできた、いわゆる「戦争花嫁」で、昭和初期か大正世代でした。
ところで、これは知って驚いたのですが、オーストラリアに永住する日本人は、男女比がほぼ1対2で二倍も女性上位という、世界でもきわめてユニークな特徴をもっています。つまり、オーストラリアに永住する日本男は、ことに高齢なほど肩身が狭いと言えそうです。
一般に日本男は、しかも昭和男は老ければふけるほど、男の沽券を意識しすぎ、男女平等価値観に配慮がめぐりません。ましてオージー女性にとっての結婚相手となれば、ほとんど絶望的です。しかもそのオーストラリア滞在も仕事上の赴任が大半で、一定期間を経れば帰国してゆきます。よって、めでたく結婚にまで漕ぎつけられるケースは実にまれで、私の知人の中では、一人だけです。
“お姉さん”留学生
私の留学生時代、同世代の日本人、ことに男であってオーストラリアで学んでいる“中年留学生”には、まったく出会いませんでした。世代が下がれば、さすがに数は増えていましたが、それでも、私の身辺での日本人豪州留学生はまれでした。1980年代半ばの当時、人気の留学先としては何といっても米国がダントツで、それをあえてオーストラリアを選ぶというのは、いささか変種扱いされる雰囲気さえありました。
ただ、そういう当時でも、いわゆる語学留学つまり語学学校には、二十歳前後の若い世代の日本人が、男女ほぼ半々で、学校でも最大級のグループをなしていました。しかし、そうした彼ら彼女らのうち、英語習得を土台に、その先への確固な進学志望を持っている人はほとんど見かけず、事実、クラスメートの中で、現地の高校への編入事例はありましたが、大学へ進んだ人はいませんでした。
ところが、そうした語学学校の同級生中、唯一、修学後での“成功”例と言えるケースがありました。それは、みごとオージーとの結婚を射止めた、同級生中の最も年長の女性でした(私とは年齢が近かったので比較的話が通じました)。彼女は最初から、徹底して「ハズハント」に焦点を絞り、しかも“器量勝負”はとうに想定外風の、いかにもしたたかな女性でした。
ちなみに、当時の語学学校の日本人留学生には、二つのグループがあり(最近でもそうらしい)、ひとつは、十代末から二十歳をやや越えるあたりの騒がしい“子供たち”で、男女半々、大半が親のすねかじりで外国生活をエンジョイしており、言わば語学留学は名ばかりの「遊び盛り」の連中でした。
他は、三十歳前後の、これはみごとに全員が女性で(私はそのまた年上でかつ男という超例外存在)、そうした“お姉さんたち”は、聞くと、頭打ちな日本での仕事に嫌気がさし、なんとか貯めた自前資金で留学してきており、しかもその額も、授業料を払えば、せいぜい半年くらいの外国生活がやっとのようでした。それこそ藁をもつかみたい気分で、たとえ数カ月の語学留学でも何かチャンスが開けるかもしれないと、ある種の“悲壮”な決心を秘めての来豪のようでした。したがって彼女らは、欠席はおろか遅刻も絶対しない、実に模範的な“お姉さん”留学生たちでした。
日本の経済力の実質的バックアップ
そのように異国生活計画での不成功例の多いなかで、中年にもなっての私の場合が、どうして今日まで“延命”可能だったのかとの問われれば、外的と内的の二面の要因があったと答えるべきでしょう。
まず、外的要因の最大のものは、当時1980年代半ばの日本経済はまさに絶好調で、やがてはアメリカをしのいで世界ナンバーワンの経済大国にものし上がらんと、日本全体の鼻息の荒々しい時代でした。まるで、今の中国と瓜二つです。
よって、オーストラリアへの日本からの投資もうなぎ上りで、日本人留学生が当地でアルバイトをするにも、日本関係のものだけでもその機会は豊富にあり、文字通り、そのおこぼれにあずかれる時代でした。
また、オーストラリア側でも、最大の貿易相手ということで、日本への注目のほども並みではなく、卑近な例では、私が日本人と聞くだけで、知り合いでもないオージー学生が接近してくるような場面さえありました(コネでも作れるかとの下心のようでした)。
ことに、そうした両国関係の最大かつ驚きの恩恵が奨学金でした。日本時代、私には一円たりとも縁のなかった奨学金だったのですが、オーストラリアでは、政府が私に、授業料免除の上、決して貧弱ではない額を、貸与でなく授与として支給してくれたことでした。
私の留学の目的は、上記のようにオーストラリアの労使関係制度を学ぶことでしたが、当時、日豪間には急速に成長する貿易関係はありながら、オーストラリアでは、労働組合のストライキが頻発するという言わば“持病”があって、日豪両政府やビジネス界での頭痛の種となっていました。
想うのですが、そこに、労使関係のスムーズな――そう理解されていた――日本から、しかも、その日本の労使実務の現場経験者が、オーストラリアの制度を学びたいと留学してきているとあっては、豪政府も、奨学金を出しても無駄にはならないだろうと踏んだのでしょう。
そうした現地事情の一方、私自身の内的要因としては、やはり、留学目的の焦点が絞られていたことと、それをカスカスでならなんとか達成できるくらいの微小貯金は用意できていたことでした。この点は、若者の留学と違って、「中年留学」がゆえのしっかりさでしょう。
それに、これは外的要因なのですが、1985年(昭和60年)、日本の目覚ましい経済成長を大きな脅威としていた米国との間で、いわゆる貿易摩擦をめぐる「プラザホテル合意」が交わされ、日本の勢いを弱める円切り上げが行われたことがあります。これによって、円の対米ドルレートは一気に二倍ほどにもはね上がり(約240円=1ドルが2ドルへ)、それは対豪ドルにも連動しました。つまり日本円の価値は、それこそ一夜にして、二倍にも増えることとなったのでした。海外投資に花が咲くのも当然です。ただし、私はその前年、日本での貯金を全額豪ドルへ換金、送金済みで、おしいことに、この歴史的幸運をつかみそこねていました。そうなのですが、当時のオーストラリアの預金利率が10%を越えていて、その「虎の子」も思いのほか成長しはじめていました。
こうした日米脅威関係は、当時の日本の「鼻息」に現れていましたが、現在の中国には、これまたそれに輪をかけた対決姿勢が見られます。しかも、当時の日米間のような現実的妥協が見出されそうにもない、「原則」上の果し合いの様相を見せています。
外へ飛び出す機会
1980年代半ばといえば、昭和60年前後です。この頃は、つくば万博や日航ジャンボ機墜落などの明暗はありましたが、日本社会そのものは「行け行け主義」の蔓延する時代で、その勢いに乗って、海外へ出て行く機会も急速に拡大していました。
後にこの連載でも触れますが、オーストラリアに住み着くこととなった日本人たちの間に、旅行関係出身の人が多いことも、その影響のひとつです。
昭和という時代は、昭和50年代以降、ことに昭和60年代(昭和64年が平成元年〔1989年〕)は、日本が世界へ打って出た経済的拡大――かってのような軍事的拡大は「平和」憲法が禁じている――の最盛期でもあり、その大波に乗って、各個々人にとっても、世界に飛び出して行く夢も実際の機会も、大いにふくれ上がった時代であったわけです。
それが、平成になってバブルがはじけ、その時代に社会に出た人たちは、昭和とはまるで明暗が逆になったような時代に遭遇しなければならなくなります。
ただ、それらの時代のもっと前の、私のように、戦後最初に生まれた世代(「ベビーブーマー」あるいは「団塊世代」)は、昭和20年代、30年代と、米国の占領下あるいは強い影響下に育ちました。この世代は、まだ幼なかったからとは言え、そうとは知らぬままその空気を吸って成長し、強いアメリカびいきの“通念”を常識としていました。むろんそれが占領政策の一眼目であったからです。
私が子供時代よりパン食を好み、武道という日本の深い伝統遺産にうといのも、小学生のころ、アメリカの食料援助の一環で学校給食制度はパンと脱脂ミルクが主食として始まり、また、戦前の軍国思想につながるということで学校での武道教育が望まれていなかったことが、私の好み以前の問題として、事実上、それ以外の選択はなかった結果であると受け止めています。
むろん当時は、日本が自らが招いた結果とはいえ、餓死者もでる食糧難状況からの戦後復興であり、かつての敵国からだろうが誰からだろうが、そうした援助を受け入れざるを得ない状況にありました。
また、私の幼い記憶の中に、町の繁華街や寺院の参道などでよく目撃した、白い服を着た「しょーいぐんじん(傷痍軍人)」が、アコーデオンを弾いて軍歌を流し、残酷に傷ついた体を人目さらして寄付を求めていたシーンが明確に残っています。それは、無知な子供心にはいかにも異様で、怖さすら感じさせられる姿だったからです。
そういう意味で私は、世代区別上は確かに「戦争を知らない」世代なのですが、周囲には戦争の惨禍の跡形や波紋は確かに残っており、それを心身で感受して育った「戦争残響」世代です。そういう意味で、区切りはなく、続いていました。
以上のように、私にとって、自人生の前半分の日本時代は昭和一色だったのですが、その昭和は、破壊の後の貧困から繁栄へと忍耐強くかつある種健全に這い上がる時でもあり、少なくとも経済的には前進一途の時代でした。そして常時、現在より将来が明るくより豊かと語られる時代でもありました。
「昭和人群像」の存在
そして最後に、私のみに関することではない、本連載に登場する、日本とオーストラリアの両国にまたがる人生を送っている人たち、全員について言えることがあります。
すなわち、今後述べてゆくように、オーストラリアの「昭和人」たちに共通して《はつらつさ》が見られるのがその通りの事実だとすれば、その「昭和人」は、日本時代には「昭和」の繁栄を、そして、在豪時代となってからは、今度は移住先のオーストラリアに起った、今日まで二十年以上切れずに続いてきている順調な経済成長の、その二つの繁栄を享受しえてきたが結果と考えられます。
むろん、こうした結果は、それをあらかじめ計算づくで実行した人は誰もいないでしょうし、それは一般的解釈では「偶然」か「運」です。
そうではありますが、それは他方、限られた幸運者というより幅広い相当数の人たちによって、取り組み方の違いはあったにせよ、共に達成されてきたことです。つまり、個人技ではありません。
そうした日豪間の両時代の絶妙の組み合わせは、歴史上、二度と起こらない実に奇遇なことながら、歴史の波にもまれながらも、その一回限りの機会を自人生中にとらえ、実際に活用し、その成果を手中にしえた「昭和人群像」を、確かに認めることができるのです。
まとめ読み
【第2回 いちばん若い「昭和人」“昭和後日本”の困難に磨かれて】
【第3回 「氷河期世代」という“非運”昭和人 実りつかんだ豪州
苦肉体験】
【第4回 「ほんとうにラッキー」日豪ともの良さに生きれて】
【第5回 見染められた昭和の「お嬢さん」 日豪に架ける家庭を築く】
【第6回(最終回) 日本の「ダークさ」に抗した孤高 「昭和」とは何だったのか】