Day 109(2018年5月22日〈火〉)
火曜は泳ぎの日。今日は1300メートルで34分22秒でした。ラップは2分38.6秒/100mです。1500メートルには達しませんでしたが、それに換算すればほとんど40分。あと200メートルを泳ぎきったとしても、これまでにない“大記録”です。
この頃、はじりながらも、泳ぎながらも考えるのですが、要するに、そうした運動を支えているのは呼吸です。そして、激しい呼吸ができなくなるぶん、タイムも落ちます。あるいは、楽な呼吸の運動をしているかぎり、長期で、タイムは悪くなってゆきます。言い換えれば、きつい呼吸を維持できるほど、タイムの悪化は避けられる、という関係です。
それでなのですが、前回に「脳トレゲーム」の効用を書きましたが、頭の働きというか、意識というか、そうした自分の精神的な働きの向上は、上記のような激しい呼吸で脳に供給される大量の酸素や多量の血流供給の産物であることです。
つまり、PCの前に座りっぱなしで脳トレゲームに精を出していても、それでは老人の“ゲームおたく”です。
正常な精神の働きの活性化とは、身体と脳の、両面の働きの活性化の相互作用の産物でしょう。
Day 11o(2018年5月23日〈水〉)
夕方もせまっていたため、今日は短距離をスピードをあげてはじり、4キロを28分25秒でした。標準ペースを1分ほども早めたほぼキロ7分のペース。さすがに呼吸がきつく、限界でした。以前はこれで平気で8キロ、10キロとはじっていたとは、信じがたい。
Day 114(2018年5月27日〈日〉)
病理学を二つの系統に分ければ、身体因と環境因だろう。つまり、病気の原因を身体の異常に求めるものと、周囲の環境の異常に求めるものだ。
認知症に、この二分を適用すれば、今の医学の主流は、脳内の異常物質にその原因を求める流れだが、そこに、ある行き詰まりを見せているようだ(2018年5月13日付け日経電子版「認知症治療の最前線:悲観論を超える挑戦 」参照)。つまり、資本のふんだんな製薬会社中心の薬物主義の袋小路だ。
とすると、二分のもう一つ、環境因の重視という、これまであまり取り上げられなかった方向が注目される可能性がある。僕は医学の徒ではないが、自分の経験から、認知症の環境因も無視されてはならないと思っている。つまり、いろいろな働きの中枢である脳のうち、高齢者に一般となる社会生活バターンが――あるいは、高齢になって表れる生涯の足跡が――、脳の機能の単純化や退化を強いているのではないか、との考えだ。
亡父の認知症を思い出すと、その進行には二つの曲がり角があったように思い出せる。ひとつは、定年退職――子会社に転職したりして段階的だったが――という職業生活の単純化である。第二は、ヘルニアでの入院で、一種の介護状態におかれ、幼児化されたかの日々の強制である。こうした二つの曲がり角は、二十数年の経過の中で起こったことだが、そうした変曲点を通過するごとに、脳の働きのいくつかの部分が、そのたびに無用視されて行ったように観察された。
僕は、自分がそうした年齢に入ってきたことから、父のものとの疑似体験をしてきているが、その当人としてことに、そうした体験を経ながらの当該者へのインパクトは、そこに伴う自尊心の傷つきや喪失が重大であると感じる。「俺もいよいよダメになったか」といった痛い現実との遭遇で、初めは無論それを認めたくはなく抵抗をこころみるのだが、現実にそれの改善のない状態、ましてや悪化などが続くと、その抵抗もやがて萎え、降伏せざるを得なくなる。そして、その強いられるダメな自分を受け入れるしかない精神状態は、その辛い現実を直視することから逃げようとする――あるいは、そういう限定をよしとする――事実上の忘却化がおこり、そしてそしてそれが痴呆化への入り口となる。
だからゆえ、この環境要因説上の認知症対策は二つ。ひとつは、生活の単純化を出来る限り避けることで、ことに、リタイアといった社会・職業生活上の人為的退却は、少なくとも自分からはしない方がいい。ふたつは、自尊心の喪失という目に自分を出来る限り合わせないこと。むろん、自然な老化に伴う不可避なものはあるが、それとて全部が一度に起こるわけではなく、また、老化によってえられる利点もある。したがって、そこでは、頑固なやせ我慢といった姿勢ではなく、視野を広げ、かつ、地道に自身の連続性を求めて、より柔軟に自尊心の維持につとめることだ。
想うに、今日の主流らしい認知症の脳内の異常蛋白質(アミロイドベータ)原因説は、薬剤中心の医療体制の陥ったトラップに見える。むしろ、その異常蛋白質を黒と言うのなら、別の原因らしき脳内の物質として、未探知の累積毒性――どんな副作用を持つかも定かでない無数の新薬を摂取させられてきた私たちの生活環境の当然な可能性――も、黒とは考えられないのだろうか。そういう意味では、アミロイドベータ原因説は、とんだ濡れぎぬなのかもしれない。
総じて言えば、認知症は、社会慣習を一方に、他方の毒性物質という、二重の健康を害する環境要因による、複合した産物である可能性が高い。つまり、それほどに、人間、ことに脳は、単純物質ではなく、複雑に環境的な存在なのだ。
ともあれ、すでにその年齢域に入っている者にとって、ことは「待ったなし」である。それぞれに悠長なことを言っている“専門家”たちの証明が出されるまで待ってはいられない。たとえ当てずっぽうでも、これぞと信じることをこころみ、危ういものは避けるしかない。
Day 115(2018年5月28日〈月〉)
先にも書いたように、呼吸の効率がスピードに直結する。今日も、呼吸の調子がよく、8キロで1時間4分36秒と、ほぼ標準ペースにもどってきた。
Day 116(2018年5月29日〈火〉)
泳ぎの日の今日、ようやく1500メートルまで距離を伸ばせた。足のつりもなかった。
過去の記録を調べてみると、最後の1500は昨年2月15日で、1年4カ月ぶりということになる。しかも昨年はその一回のみ。その前は一昨年の9月で、1500m泳は、実質的にはほぼ2年ぶり。おかげでタイムは40分28秒(2分41.8秒/100m)と40分台。それでも、昨年2月の41分ちょうどよりは少々よい。2年前では、30分台を守っていたが。
Day 118(2018年5月31日〈木〉)
去年の脳負傷入院による、エクササイズ停止と制限が影響を及ぼしているのは確かなのですが、ただそれがどの程度か、気になっています。そこで、この間の記録から集計をとってみました。
表1 エクササイズ集計表
表2 入院前後集計
表1のように、昨年10、11月の実績はゼロで、ようやく、12月からの開始がみられます。この中断を境に、はじりの速度は、キロ7分半ほどだったものが、その後、ほとんど1分遅くなってしまっています。
こうした入院前後の違いを見るため、集計期間をそれに合わせたものが表2です。ここに、その違いがタイムにはっきりでています。しかもそれが、はじりと水泳で違うのです。はじりでは、キロ当たりのタイムが、7分35秒から8分28秒へ、53秒遅くなっています。それに対し、水泳ではほとんど差がなく、わずか3秒のみです。
どうやら、入院による運動能力の低下は、水上運動より陸上運動により大きくでるようです。それにしても、どうして、水と陸で違いがでるのでしょう。陸上のほうが、体重増の影響を受けやすいのでしょうか。
9月のヒマラヤ再挑戦にむけ、この陸上能力の回復は重要です。今後、少なくともはじりをキロ8分の標準ペースを切るまでには、もってゆきたいものです。
この1ヶ月間のエクササイズ・ログ
5月07日(月) はじり 8km 1時間07分17秒 79.0kg
5月08日(火) 水泳 1,100m 29分12秒 79.8kg
5月09日(水) はじり7.5+歩き0.5km 1時間08分04秒 78.6kg
5月10日(木) 水泳 1,000m 26分41秒 79.4kg
5月11日(金) 自・電車通勤 自転車走行 8km
5月12日(土) 自・電車通勤 自転車走行 8km
5月13日(日) 自・電車通勤 自転車走行 8km
5月14日(月) 来客
5月15日(火) はじり 約10km 1時間25分53秒
5月16日(水) なし
5月17日(木) 自・電車通勤 自転車走行 8km
5日18日(金) 自・電車通勤 自転車走行 8km
5月19日(土) 自・電車通勤 自転車走行 8km
5月20日(日) なし
5月21日(月) はじり 8km 1時間04分59秒 78.2kg
5月22日(火) 水泳 1,300m 34分22秒
5月23日(水) はじり 4km 28分25秒 79.2kg
5月24日(木) 自・電車通勤 自転車走行 8km
5月25日(金) 自・電車通勤 自転車走行 8km
5月26日(土) 自・電車通勤 自転車走行 10km
5月27日(日) なし
5月28日(月) はじり 8km 1時間04分36秒 78.6kg
5月29日(火) 水泳 1,500m 40分28秒 80.0kg
5月30日(水) 雨天のためなし
5月31日(木) 自・電車通勤 自転車走行 8km
6月01日(金) 自・電車通勤 自転車走行 8km
6月02日(土) 自・電車通勤 自転車走行 8km
6月03日(日) 歩き 2時間
6月04日(月) はじり 6km 49分37秒 78.6kg
6月05日(火) 水泳 1,200m 31分39秒
6月06日(水)