4.“お呼びでない”所に顔を出す
先週、毎年初の恒例となっている、ニュージーランド(NZ)でのトレッキングに行ってきました【別掲でその映像レポート】。本稿は、なかなかチャレンジングだったその体験を、本連載の趣旨にそって、「多世代協働」との角度からたどってみるものです。
ズバリ言って、この5泊6日のトレッキングは若者たちの世界で、我々――私72歳、相棒65歳――はそこに闖入した、いかにも“お呼びでない”存在、とでも言ってよいものでした。
毎朝、泊まった山小屋を比較的早く出発するのですが、まもなく、後からやってきた朝寝坊の若者たちに難なく追い越され、彼ら彼女らの姿は見るみる遠ざかってゆきます。
総じて、我々の所要時間は、若者たちのそれの、ほとんど5割増しとさえ言ってよいほどです。むろん、そうだから早めに出発するのですが、 逆に到着は一番後になるのが常でした。
そういう、世代的に不似合いな場に顔を出している感を再認識させられたこのトレッキング体験でしたが、確かに、身体的には苦しい体験ではあった一方、精神的には、大いに楽しませてもらった面がありました。
それは、広く言えば「出会い」の楽しみですが、もう少し絞り込んで言うと、「異世代間の出会い」です。
たとえば、一日の行動が終わって山小屋で歓談している際、我々以外のほぼ20代から30代初めの人たちによる、若々しい賑やかさがあります。それも世界各国からやってきた人たちで、NZのトレッキングの世界的人気を実感させられる一方、その出身国構成の多彩さに、このトレッキングならではの妙味を堪能することができます。
それに加えて、我々にとってのさらなる妙味は、その世代の違いです。それも、互いに「トレッキング好き」だからこそ、そこにそうして集っているという、明確な共通性を互いにシェアーし合った上でのその出会いであるということです。そこがもし、下界の若者たち向けの場などであったとすれば、間違いなく我々は、“下心あるオッサンたち”とけげんな眼で見られたことでしょう。
そうした、自然環境が提供する共通項を土台に、率直に親近感を交わし合える同友意識、これこそ、一日の苦しい歩きをつぐなって足る、他には代えられない醍醐味です。単に、「そこに山があるからだ」、で済まし得ないものです。
そこでなのですが、そうした山好き、広くは自然志向の人たちにとって、訪れたい目的地には、当然に共有するものがあります。そうした話題の際、我々、年のいった者の強みは、何といっても、そうした目的地のいくつかを、すでに訪ねたことがあるという経験です。そして、その際に得たさまざまの実体験やその感想は、そこをこれから訪ねようとする人たちにとっては、ぜひとも聞いておきたい情報です。
また、彼らが考えていなかった場所でも、そうした経験者が推薦する「穴場」や「掘り出し物」の情報は、一般的な旅情報からでは得られない、生の面白さを臭わせています。たとえ個人的な傾きのものであったとしても。
こうしておのずから、今後、互いに情報を共有し会って行きましょうという話となり、互いのメールアドレスや連絡先の交換という発展となります。
つまり、私ほどの年齢に達した者にとって、よほどの奇遇に恵まれない限り、世代を隔てた人たちと交流をえるといった体験や発展を持つことは、通常、まずありえないことです。
それどころか現実は、旧友や旧知の人たちの病気や旅立ちの報が増えてくるというのが実情で、そういう意味では、人的関係は広まるどころか狭まり行く一方と言えます。
そうした境遇にあって、新しい、しかも世代を異にする人たちとの接点を持ちうるこという二重の意義は、計り知れない値打ちを潜在させていると断言してもよい程です。
このような極めて貴重な発展をもたらしてる原動力は、間違いなく、そうした異世界に闖入できる、高齢世代側の健康あってのことです。
今回更新の別記事では、一個人の健康という視点に立って、私はこうした成果を「健康が健康を呼ぶ《良・循環》」と呼んでみました。
しかし、それはそれで確かなのですが、本稿の趣旨である「多世代協働」との脈絡においては、《家族》――血縁という決定的縛りが避けられない――にそうした協働の要素が無くはないものの、ことに、誰にとってもの《生き方探り》という縛りのない社会的意味においては、家族とは異なった上記のような“NZ産”異世代人的関係は、健康な高齢化時代の新たな社会的家族関係とでも言えるものではないかとにらんでいます。言うなれば、《脱・家族》家族関係の可能性を拓くものではないかと。