霊理学〈着想圏-1〉:「航霊機」産業への展望

越界-両生学・第一本編(その3)

前回、霊理学を科学と見るための定義のひとつとして、「人間-生命=霊理」という方程式をあげました。

そう考えながら、以前、日野原重明(聖路加国際病院名誉院長)氏が、明日の世界を担う子供たちに教えたい最も大切なこととして、「命とはその人が持っている時間のこと」との言葉を思い出しました。

私は、氏の著作や講演でこの言葉に出会いながら、正直なところ、いまひとつピンとこないところがありました。

しかし今、自分で編み出した「霊理」と言う、用語ばかりでなくそれが対象とする領域を想定する時、あらためて、氏の言わんとしていたことが何であったのか、それが浮上してきています。

つまり、氏の言葉を方程式で表せば「命=時間」ということとなります。

ということは、私の考えた「人間-生命=霊理」という方程式に、この氏の式を代入すると、「人間-時間=霊理」という式になります。この意味は何でしょうか。

もちろん、日野原氏はお医者さんで、「命の尊さ」について子供たちに教える脈絡で、この表現を用いていました。

しかし、私――満70歳1カ月――という巷の老境者にとっての脈絡では、そういう命への「尊さ」も、現実としてカウントダウンの対象に入ってきています。そういう境地からでは、同じ「命」と言っても、日野原氏の扱うそれとは、角度が180度反転したものとなります。

つまり、子供たちのように命の入り口期にあるのではなく、出口期に差し掛かっているわけです。

 

タイムマシーン=霊理コンピューター

そういう対比が描かれるこの方程式「人間-時間=霊理」がですが、それが意味する奥義は、「時空」という私たちが生きている世界から時間を取り去った世界、ということとなるでしょう。

そしてさらに、この式の実用を想定してみると、たとえば、タイムマシーンとは、その時間次元を任意に操作できるという「技術」の応用です。したがって、そのタイムマシーンを操縦して時間をゼロにした時(つまり「人間-0=霊理」の状態)、私たちはまさに「霊理」と化しているということになります。そして、時間がゼロとは、移動速度が無限大ということでもありますから、同時に世界や宇宙のどこにでも居られるという、テレポート状態を達成していることになります(ちなみに、原子核の電子は、そういう状態にあるようです)。

言い換えれば、現実と霊理の世界を行ったり来たりと操作できる装置が、タイムマシーンとでも言えます。

そしてさらに言い換えれば、《数理の世界》を装置にしたのがコンピュータですから、《霊理の世界》を装置にしているものがタイムマシーンと言えるでしょう。

そう考えれば、「霊理」とは、オカルトでも、迷信めいたものでも何でもなく、実に近代的な、スマートな先端科学分野という様相を発揮し始めます。

また、文言通りの議論をすれば、「時空」から「時」を取り去れば「空」となり、仏教思想でいう「無」の考えに通じるような世界が登場してきます。

 

時間=地球的

以上のようにして姿を現す「霊理」という《先端科学世界》は、先に述べたように、私たちの体験上では、「し」という通過点を通った後に“体験”できる世界です。

そして、この「人間-生命=霊理」という方程式が私たちに示唆していることは、具体的な「時間」とは、極めて《地球的概念》であるということです。つまり、それは地球の在り方と密接に結びついています。

たとえば、時間という「量」を、1日=24時間、1年365日といったふうに定義しているのは、地球という惑星のもつ自転や公転周期を根拠としたものです。そして、そうした時間の関数――超複雑なものですが――として、生命というものが規定されています。年齢とは、この関係の別表現です。寿命という考えもそうです。

これを逆に言えば、惑星という宇宙の周期的存在が、そのサイクルを基準に作り出しているのが《時間》単位で、そういう特定の周期的環境に根差して存在しているのが《生命》である、と言えます。ですから、時間は本質的に特定の惑星の条件に付随するわけです。したがって、私たち地球人の特殊時間が、どこまでも《地球的》であるのは当然なことです。

そういう《生命》の一つを維持しつつ、「70の大台」に乗った私は、その地球上の統計的平均値を基準に、残余の人生を想定や予想をさせられているわけです。つまり、一つの命の「総量」をそのように、時間と結びつけて受け止めているわけです。

ちなみに、一年が地球の一年の百倍の長さの惑星に私が生きていたとするなら、その私の70歳という地球的長さは、高齢なのか、それともほんの“鼻ったれ”なのか。

つまり、時間という次元尺度は、宇宙のどこにでもあるのでしょうが、その量的定義の内容は様々でしょう。あたかも、あってなきがごとしです。つまり、本質的に相対的で、比べようがない、というわけです。

例えば50光年先の星へ地球から旅する場合、それは反動式ロケットしか知らない地球人にとって、仮にその速度を千分の一光速という恐ろしいほどの速さが出せるとしても、片道、5万年を要するわけです。

それを、その星の人間がUFOに乗ってやってくる場合、それは長くとも、数カ月ほどのもののようです。むしろ、そういう技法を彼らが知っているからこそ、かれらは膨大な宇宙の距離を旅できるわけです。

言い換えれば、宇宙をそういう距離感で考えているのは、地球人たる私たちだけで、宇宙の常識には、まったく次元を異にする距離感があるはずです。つまり、「旅」ができるという意味で、宇宙では、過去も未来も、旅行日程の内の「現在」です。

 

多次元移動装置=航霊機

そういう《霊理の世界》は、地球を支配する「時空」つまり「3次元+時間」の世界ではなく、「多次元」の世界で、その「多」の中に「時間」も含まれているものです。

私たちが、「3次元」空間のなかで、その3つの「量」をあやつって――たとえば飛行機で――旅行をするように、この「多次元」世界では、その多くの「量」をあやつった「旅行」が可能なはずです。

つまり、私たちが、「タイムスリップ」とか「ワープ」とかと断片的に空想するいわゆる「超常現象」は、その多次元のうちの「時間」をあやつったものが「タイムスリップ」であり、3次元以上の多次元をあやつったものが「ワープ」に相当するものと考えられます。そして、この両方の操作をいっぺんに可能にしているものが、ETたちが乗ってきているUFOではないかと想像されます。

つまり、私たちが航空機を考案、製造して、「時空」すなわち地球世界を旅するように、UFOのような《多次元移動装置》を考案、製造することが、私たち地球人間のこの先の課題であるということとなりましょう。

たとえば、航空機を製造するために、流体力学とか機械力学の技術が必要であったように、この《多次元移動装置》を製造するためには、おそらく、宇宙をなす諸要素の力学を活用した技術が必要となるはずです。

そしてその力学には、量子力学や、原子核に働く「強い力」や「弱い力」を解明した「素粒子力学」が主力となることでしょう。

そして考えるに、「霊理」という新科学領域において、その「霊」の意味するものとは、そうした「素粒子力学」が対象とする諸要素の総合像でしょう。

ここで、この《多次元移動装置》を「航霊機」と呼ぶとすると、「し」という通過点を越えて越境するさいの乗り物こそ、この《航霊機》のはずです。そして、それほど遠い未来ではない未来において、この《航霊機》を製造する「航霊機産業」が生まれるはずです。

現に、別掲の訳読が述べているように、すでに墜落したUFOを逆工学して、秘密裏に、UFOのプロトタイプ――この《航霊機》の一種――が生まれているといいます。

そうした《航霊機》が公開のもとで製造され、誰にでも利用できるものとなった時、「し」への旅は、今日のように葬儀屋に行って執行されるのではなく、今の旅行会社で航空便を予約するような、次元移動の旅なのではないでしょうか。

そう想像すると、今日、旅行をするには時間――ふつう「余暇」と称される――が必要とされ、人は、休暇をとるとか、仕事を一時的にでも止めるとか、リタイアするとかと、その手段を選ばなくてはなりません。

だとすると、「し」とは、そういう時間や仕事から本質的に開放されることでもあり、そういう意味で、命という地球的拘束から解かれて、多次元的自由の世界への旅立ちです。別次元の「いのち」の獲得です。

そしてその旅先は、そしてその醍醐味は、たとえば、過去の権力者がいかに嘘を言っていたかの検証であり、あるいは、今日の愚かな政治や社会が何をもたらすことになるのかの検分であるでしょう。

ならば、老人が「し」してなせる役割は、なんと貴重なものであることでしょうか。(もし、その《航霊機》のプロトタイプがすでに生まれているとすると、なぜそれが、それほどにも厳密な秘密とされなければならないのかの理由も、そんなところにあるのでしょう。)

 

 

 

 

 

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