迷惑は承知です、イチロー。

私の健康エコロジー実践法(その3)

引合いに出される方こそとんでもない迷惑だろうことは承知の上で、「年をとる」ことの誰しもに“共通”な課題について・・・。

新聞記事によると、ヤンキースのイチローは、9月22日の対ジャイアンツ戦の最後の打席に立ったが、三振におわってチームは逆転負けした。「イチローなら」というファンの期待が裏切られ、その後のヤンキースの対レイズ3連戦は、スタンドに空席が目立ったという。ヤンキースにとって、今シーズンはもう「終わった」という感じだったそうだ。

イチローは、その打席で「タイムリーを打っていれば、存在感を改めて示せたに違いない」。「打てなかったことで、もう以前のイチローではないことを証明してしまったかのようだ」、というのがアメリカ野球界でのささやきであるといいます。まもなく40歳という大台を迎えるイチローへの、うがった見方であるわけです。

そうした渦中で本人はこう語っています。

「年齢に対する僕以外の人たちの捉え方で、煩わしいことはいっぱいありますよ。35を超えて何か生まれてきたんですけど、そういうことと戦うというのはとてもストレスなので、僕にとって、ない方が助かりますよ。」

「ある年齢になるとこうなっているだろう、まあなっていてほしいという思いがそこになにか垣間見えて、ちょっといやなんですよねぇ。」

 

同じ年齢問題だとしても、いま私が迎えているそれは、60も後半という年齢問題”後”年齢問題。あるいは開き直って、“超”年齢問題と言ってもよろしいでしょうか。ともあれ、下り坂に入って、もうおおいに久しいところでの話です。

ちなみに、私の場合の40歳は、記憶にあるのは、人生80年として、その折り返し点であるそれを、「もう40歳と見るのか、まだ40歳と見るのか」、の違いとして考えていたことでした。オーストラリアでの「中年留学」の真っただ中でのことでありました。

 

イチローは続けて語っています。「僕がしているトレーニングとかも、これが最高かどうかは人によると思いますけど、何十年も前の人たちのそれと比べたとき、考えられないようなトレーニングなんですよね。それを続けている僕が、そのくくりでなにか評価されるというのは、残念ですね。」

たとえば私の「10kmはじろう」をトレーニングと呼ぶかどうかは別として、寄る年に対し、何らかの工夫をもって対処しているという点では共通している、と言わせてもらいましょう。

そこでイチローは言います。「そういう(見方を変える)きっかけをつくるっていうのは、僕たちの大きな使命であるというふうに思っている」。「具体的な例が出てこないと、結局変えられないことなので、それはも何十年もかかることなんでしょうね、きっと。でも、こういうことを論理的に何か発したとしても実例がないとそこに説得性はないですから。そういう選手がたくさん生まれることが一番大きな影響じゃないですか。」

イチローにとっての「具体的な例」とは、自チームの実績であろうし、自分の作った打率や出塁率です。そういう意味では、きわめて明確に黒白が出る話です。

私の場合、そんな実績や率は出しようがありません。

そうなのですが、ある年齢に関しての自分がいだく《常識》というものが、自分の内にひそむ、てごわい敵手であることは、共に同じであるように思います。

 
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