「運動が時間を生み出す」のはなぜか

メンテという仕事(その8)

ポン転 第104日(2023年5月7日〈日〉)

[ポ車/ポメタメンテ]「運動は仕事」という認識についてだが、『運動脳』や「動的平衡」論によると、今なお、人体の状態は、進化過程上の、狩猟生活に適応した時から変わっていないという。ヒトの祖先が発生したのはおよそ700万年前で、それ以降ずっとヒトは飢餓にさらされた生活を送ってきて、食料危機から解放され、むしろ飽食さえするようになったのは最近のほんの数十年のことだという。そういう人体条件では、運動とは、生存を維持してゆくための基本能力であって、それの出来ない個体は飢えて死ぬ運命にあった、それが今の我々の体だという。

今日、「仕事」と言えば、お金を稼ぐための行動のことだ。仕事を失えば、即、今日的飢餓状態にさらされる。ところが、過去700万年の「仕事」とは、獲物を得るために野山を走り回る行動のことだった。まさに身体的運動だ。

私が運動後に感じるあの満足と爽快感は、そうした700万年間行ってきた必要な身体的運動を満たしたがゆえの体の示す反応のようだ。

いうなれば、この古めかしい体のメカニズムため、私たちはそこに生じる運動量のギャップを埋めるため、運動を必要とする。それを無駄な時間の浪費と考えようとなかろうと、体はそう出来ている。いっそ、運動をすればお金がもらえる制度を設ければよい(肉体労働がそれ?)。これこそ「体が資本主義」。

さてそうなのだが、そうした、現代の仕事=金稼ぎ行動=運動不足+飽食=肥満/病的人間という(資本主義)方程式に支配されているのが、現役時代の人生である。ところが、私はリタイアして、もはやこの方程式の支配からは逃れ、年金生活という人工的な制度に保障された、無金稼ぎ、無狩猟環境という(福祉制度)方程式の支配のもとに生きている。

すなわち、福祉制度方程式の内にあるのに資本主義方程式の生活を続けていれば、生活習慣病と呼ばれる金稼ぎ奴隷病で短命となる。(福祉制度の実施にはコストがかかり、その短命はその適用期間の短縮を意味して合理的、との考え方もある。)

ここに、「運動は時間を生み出す」ことの理由のひとつがあり、そういう「仕事である運動」は、まさか、一日に8時間も行わなわなくともよい。まあ最大2時間程度で十分だろう。つまり、8-2=6時間という時間を生み出したこととなる。そういう制度上の理由である。

ただそれだけではない。それに加え、生物学上の理由もある。「動的平衡」論によると(まだ、十分な理解に至っていないのだが)、人間は年を取るとタンパク質の新陳代謝速度が低下するという。そこで想うのだが、運動をすることで代謝速度の維持あるいは低下を抑えることが可能となるだろう。つまり、これが運動が人を若返らせるメカニズムと考えられる。こうして、暦年齢-身体年齢=X年との、若返りという時間を生み出す効果がある。

こうした二つの意味において、運動は時間を生み出す。

 

ポン転 第107日(2023年5月10日〈水〉)

[ポ車/ポメタメンテ]「運動は仕事」についてその続き。毎日をこの「仕事」に従事していると、むかしの〈金稼ぎ仕事〉時代の日々の充実感とは比べ物にならないそれがある。そこでこれを〈ほんとの仕事〉――いかに雇用関係という自分を売買する行為が人の働きというものを歪めているかの感慨を込めて――と呼ぶことにした。

私はこの〈ほんとの仕事〉をするようになって、生まれ変わったと表現してもいいような根本的な違いを見出している。それは、〈金稼ぎ仕事〉にいそしんでいるころ、日々の何ともいえぬ鈍鬱な疲労感の一方で、「今日はいくら稼いだ」との味気ない数字の感覚でそれを穴埋めしていたものだったが、その時代には味わったことのなかった、自分の身体と自分の心が一体となっている感覚がゆえにだ。そしてこの身心一体感がゆえにだと思うが、そこから出てくる創造性だ。つまり〈ほんとの成果〉だ。

いまのこの〈ほんとの仕事〉にも、むろん疲労感はある。だがそれは、爽快な疲れで、健康的な空腹感と眠気をもよおす。そしてそれらを生理的に満たした後にやってくるのが、この〈ほんとの成果〉だ。

もし世界を作り変えて、だれもがこの〈ほんとの成果〉を生み出せるようになったなら、世界はどれだけ素晴らしいものとなるだろう。そもそも地球って、無数の生物たちによる、そういう産物であったのではないか。

もはやそれは、年齢がどうのこうのと、四の五の言っている話ではない。

要は、自分で自分自身という車=生命をどう運転してゆくかである。

どうやら、事態は[ポ車/ポメタメンテ]から[ポ車/メタオペへと変わりはじめたようだ。

 

ポン転 第108日(2023年5月11日〈木〉)

[ポ車/メタオペ]「運動は仕事」その3。運動によって体が若返るというのは、新陳代謝を促進することで、エントロピーの増大を防いで、時間を作り出しているから。

 

ポン転 第109日(2023年5月12日〈金〉)

[ポ車/メタオペ]今日、運動のノッチが一つ上がった。10キロの完走。タイムは1時間25分17秒。最後の10キロは昨年3月15日の1時間24分48秒だから、1年2か月振りにしては悪くない。ただ、まだ時々右足の蹴り具合で、ツーンとした違和感が走る。体全体でのリズム感とスプリング効果を作らないと、そうした局部への負担を引き起こす。僕にとってのはじりは、足ではじるのではなく、体全体での仕事。

 

ポン転 第111日(2023年5月14日〈日〉)

[ポ車/メタオペ]8キロはじりが1時間7分39秒なら、どうってことはないのだが、往路の35分に対し、帰路が32分39秒で、これは最近では上々だ。キロ8分への再帰の背中が見えてきたというところか。

 

ポン転 第116日(2023年5月19日〈金〉)

[ポ車/メタオペ]上に記した「運動が時間を生み出す」だが、上のように書きながら、いまひとつ突っ込みが足らない感覚をもっていた。その「時間」についてなのだが、昨日、『フィラース』に「〈新展開〉章 《哲学する生命》」を発表し、今日、それを改めて読み直しながら、その不足分が何かがはっきりしてきた。

すなわち、同章の結論部で、

空間即時間【ユートピア世界】の中で、一【社会】は、不可避的に(すなわち自己否定的に)、常に動きゆく世界、亡びゆく世界として表現されている。そしてこの連続性、もしくは同時性が、時間を駆動している、と考えれば、西田がこれを「時【時代】の形式」と呼んでいることも理解できるように思える。

と書いているこの、「時間を駆動」という表現だ。つまりその生の矛盾のなかで、「自己同一」とは、瞬時にできるのではなく、それを生む出そうとする過程が必要で、その過程が時間という変化にそって成されるということだ。つまり、そのマイナスからプラスへの価値が生みだす動きが、時間の関数であるということだ。

ということは、「この動きが時間」であるのが「運動が時間を生む」意味だということで、〈動き=運動〉が〈時間〉と同等だということとなる。

これだから、日野原重明氏の言う「命とは時間」ということとなのだ。

その〈動き=運動〉すなわち命が無ければ無いほど、時間は短く感じる。

つまり、命を長らえさせるから、時間も長くなる。命を充実させていればいるほど、時間は長くなる。長命とは、その結果である。

(動きの)止まっている所に時間はない。動いているから時間がある。

 

 

 

 

 

 

Bookmark the permalink.