3QsP Day 18(2021年8月9日〈月〉)
はじり再開。ひと月ぶりの8キロ。4週間のブランクのあとの1時間5分28秒(標準+1分半)ならまずまずだろう。右足の問題個所(疲労骨折部分)の痛みもなく順調。ただ、さすがにスタミナが減退しているのは確か。
3QsP Day 21(2021年8月12日〈木〉)
再開2回目の8キロはじり。タイムは1時間5分32秒で三日前とほぼ同じ。今日、印象的だったのは、終わったあとのこと。いつものように、30分くらいかけてクールダウンをするのだが、空はひとつの雲もなく、昨日までの風と、ロックダウンの交通量の低下による排ガス減で、まさしく大気は透明である。一通りのストレッチをおえ、芝に西を向いて胡坐をかき、傾いた太陽を浴びる。まさに、黄金の光に抱擁されているごとくで、輝く太陽からとどく光で、饒舌に語りかけられているようだ。
不思議なのだが、これほどの快適さ、爽快さがそうしてそこにあるにも拘わらず、そこにいるのは僕だけなのだ。時々は、散歩を終えた人たちが通りすぎるが、その豪華さに気付きもしないのか、立ち止まりもしないし、そう満喫している僕に気付きさえもしていないようだ。
冬の芝は、柔らかく緑が初々しい。それが西日をあびて、黄金色に染まっている。まるで、黄金が敷き詰められているようなのだ。これが本物の黄金なら、山のような人々が押し掛けるだろう。本当はそれ以上の値打ちがあるのに、僕以外に、だれも知らないようなのだ。
3QsP Day 24(2021年8月15日〈日〉)
日本では終戦記念日。
運動というインフラ作りのそのインフラのことだが、どうやらこれまで、それをフィジカルな面を中心にしてしか考えてこなかった。
しかし、この木曜の記録にもあるように、そのメンタルな効果が、実は、もっと大きいのではないかとの気付き。つまり、そうして運動能力を付けて(つまりそれだけの健康な筋肉や身体部位を整えて)エクササイスをするということは、そのように自然や地球や太陽と対話できる技量を付けているということで、それがそのように快適、爽快ということなのだ。つまり、このメンタル面とは、そういう大自然との会話能力をもつことで、人間自体に発生してくるそういう能力――これって実は、すごいひらめきをもたらす創造力の源泉――のことだ。
自然との対話能力を持つことで生まれる力(それがないから、闇雲に自然を搾取するという自滅行為をとってきた)、それが私たちの自然力ということで、自然に対しても、もっとも無害であるということ。
そのようにして出来てくる地球像が「バーチャル地球」であり、人間がそういうインフラ能力を付けた人間に変われば、おのずから、自然への汚染を避ける生活習慣をつけるという環境負荷の低い人間となってゆく。
そうなれば、車への依存は減り、スポーツは広く誰にとっても活発となり、オリンピックもそういうスポーツの祭典として、「個人の競技別世界一争い」の意義は薄れ、「総合的な創造性」といった全人的関心を(もし競うなら必要があるのなら)扱うものとなってゆくだろう。
3QsP Day 28(2021年8月19日〈木〉)
7月14日に延長が決まり、それ以来続くロックダウンで、床屋はもう二カ月以上、閉まったまま。おかげで、髪は伸び放題。それでも今は、そもそも髪が薄くなってて、伸びも昔ほどではないのか、さほど見苦しくはない。このままほっておいて、自然の長髪するか。この間に、免許証の更新があって、その写真はこの頭。幸い、写真の背景が白で、白髪の伸び具合はさほど目立たない。
3QsP Day 29(2021年8月20日〈金〉)
75になった。だからというわけではないのだが、いよいよ、ここシドニーでの感染は衰えを見せず、その状況をにらんだ判断の必要を感じる。
州政府は、対策のノッチを上げた。来週からは、夜間外出禁止となり、またロックダウンも、9月いっぱいまで延長された。
それに、どの政府も、それこそ耳にタコができるほどに繰り返しているのが、ワクチンの接種で、そのうるさいほどの強調だ。もう事実上の強制の態度で、州や連邦政府でゴールの数値に幅があるが、70から80パーセントというのが目標に一刻も早く到達しようとしている。
ただ私としては、ワクチン接種の効果は限定的と見る。イスラエルも高割合の二度の実施をもっても増加は抑えられず、三度の実施に入っている。この例を見ても、ワクチンとウイルスのいたちごっこは永遠に終わらず、結局は、個人のもつ免疫頼りの共存状態に向かわざるをえないと見る。タバコといっしょと言えば語弊はあるが、害毒は覚悟でも、社会から抹消できない、一種の《自己甘やかし》の産物なのだ。病気とは畢竟、そこまで完璧になれない、人間のゆるみの発露なのだ。
自分としては、政府の出す禁止事項はきっちり守り、そのレベルに逆らっているわけではない。また、自分のこれまでの経緯から、感染の恐れを肌身に感じているわけでもない。むしろ、自分が健康のために自分に課しているルーチンは、その効用レベルとしては、求められる行動規制よりはるかに高い水準にあるし、これまで何ら感染の兆候すらなく、自分流で十分機能してきた考えている。
ただそこでのひとつの問題は、社会的なものだ。すなわち、自分が無症状でも、ウイルス保持者である可能性はあり、それが他者への感染を引き起こしていることは否定できないことがある。むろんPCR検査で、陽性、陰性の判定はでるが、それもその時点のみの判定にすぎず、長期的には、常に、潜在陽性者である。
というわけで、自分を守るという観点ではなく、社会的義務を果たすという意味で、ワクチン接種を受ける選択を考える時期に来ている。