4月8日〈月〉
引っ越しした先のアパート(日本でいえばマンション)がまだ新しく(築5年)、清潔なため、室内では裸足で暮らしている。そのため、足の裏の感覚を日常とするようになった。そこで突き詰めたいと思い始めているのが、もう、十数年間もそうなのだが、自分の足の裏の感覚に奇妙な違和感があることだ。ことに、靴を履いた時、あたかも何か異物を踏んでいるかのような感覚。時には、靴下にしわがあって、そこが二重になっているような、それ。
そうした違和感を、この裸足生活の中でもっと追跡して、できれば解消してみたいとの考え。
4月10日〈水〉
ここのところ、尿の出がより細く、時間がかかるし、尿意がきつい。それはどうも引っ越しと関係していると思うのだが、そのために運動ができずにいるためではないか。汗をかかないため、飲む水の量が減って、尿の量も減り、そんな悪循環が起こっているかに思われる。
今日も、8キロをはじって、飲料の量がふえ、こうした排尿の問題が和らいだ感じがする。
尿の量の問題だけでなく、運動による股関節付近の動きの活性化は、そのあたりの臓器への血流も改善させていることもあるだろう。
ともあれ、「せがれ」には、世話をやかされる。
4月11日〈木〉
水泳、600メートル、17分33秒。
4月12日〈金〉
6キロのはじりだったが、帰路に3度のハイピッチを入れたインターバル走法を行い、50分20秒(8.39分/km)。細分は、往路27分20秒(9.11分/km)、帰路23分00秒(7.66分/km)。
4月13日〈土〉
ショッピングをかねたサイクリング、19.5キロメートル。水泳、600メートル、17分48秒。
それに、今日、このサイクリングのもう一つの目的は、「測量」である。自転車に取り付けてある速度計は、別面、走行距離計でもある。それを用いて、移動先を起点とした、運動ルート上の目盛り付けである。1キロずつの目盛りを、可能な限り正確に――さもないと、そこでのタイムを計っても意味がない――、そのルート上に刻んでおくのだ。かくして、引っ越し先での、エクササイズの準備も整った。
ただ、この目盛り付けは、この川沿いの道の上流に向かってのルート上のもの。
その下流に向けてのルートは、今、ちょうどこの移転先の目の前で、幹線道路の下をくぐる部分で工事が進行中で交通止めとなっている。おそらく、あと1-2か月で、完成となるだろう。
また、やはりこの移転先の近所で、公営プールの建て替え工事がこれも進行中で、これは後1年半ほどを要する模様。
これらがすべて完成すれば、この引っ越しによる生活インフラのグレードアップも完了となる。そのころは、私は79にも近いはずだが、この整備されたインフラを、もう十年は使わせてもらわねば、この引っ越しの意味は薄れる。
4月14日〈日〉
引っ越し騒動が片付き、日常、ことに、私の働きの熱源であるエクササイズが復活してくるにつれ、自分のリタイア生活の醍醐味が再び現実味を帯びてきた感がある。しかもこの引っ越しは、たんなる地理的移動ではない。両生生活の磨き上げのための現実基盤の底上げである。
4月17日〈水〉
自分にとって、「運動とは仕事である」と、もう、幾度も述べてきた。この「運動が仕事」という意識は、それが70代も後半になった者にとっては、たんなる心構えではない。それは実質の健康維持どころか生命創造行為である。つまり、この仕事を通じて、生きているという機会と、それを生かした何かの生産をもたらしている。これは、高齢者を消費人口とみなす現在の経済政策では考慮されていない、新たな社会の財である。
早い話、マネー経済で疲弊した社会を健全化する、絶好の人的資源となれる。これに気付いている政治家はまだいない。
4月20日〈土〉
木曜もそうだったが、はじりが快調で、復路でインターバル走法を入れてみたが、想いの外、ピッチが上がった。
今日は雨模様だが涼しく、はじり日和。8キロで復路にインターバル走法をするつもりでいたが、距離を伸ばして5キロで折り返し、復路では、インターバルの積りのハイピッチを続けて、なんとタイムは1時間20分57秒。あと1分で、キロ8分を切るタイム。記録を調べてみると、2020年10月27日の1時間20分58秒に並ぶタイム。体重が減っているのも一因かも。ちなみに、4年前では10キロは頻繁で、しかも20を切るタイムもいくつかある。